役人学三則
末弘厳太郎

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 ××君 いよいよお役所勤めをされるようになったそうでまことに結構です。ご両親もさだめしお喜びのことと思います。ところでお手紙によると、役人として必要な心得をきかせろというご注文ですが、不幸にしていわゆる役人生活の経験をもたない私には、とうてい官海游泳術その他手近にお役に立つようなことを申し上げる資格がありませんから、ただ平素外部から役人諸君に接触して感じた事柄をまとめてご参考のためお耳に入れたいと思います。もちろん申し上げたいことは軽重いろいろあるのですが、便宜上次の三ヵ条にまとめた上、その後に注釈めいたことを書きます。いかにも大学の法律先生らしいな、と笑ってはいけません。

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第一条 およそ役人たらんとする者は、万事につきなるべく広くかつ浅き理解を得ることに努むべく、狭隘なる特殊の事柄に特別の興味をいだきてこれに注意を集中するがごときことなきを要す。
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 君ら若い方々はとかく理想にとらわれて一生をある種の事柄にささげたい、それには役人として自分の好むある種の事柄に力を集中してその道の専門的達人になりたい、というふうに考えがちであるが、君がもしも役人として出世を希望するのであるとすれば、かくのごとき態度は根本的に間違っている。現在の官制および官吏任用の実際は、ある種の行政事務に特別の興味を有し、したがって特殊の知識技能を有する役人が一生をその事務にささげつつ適当に出世しうるようにできていない。今まで××島支庁長をしていた人間を突然地方職業紹介事務局長にしたり、昨日まで法制局で法規立案の形式的事務に従事していた人を産業行政の局長にするようなことは現在の官海では尋常茶飯事である。先日ある医学博士は昨日まで警視庁の消防部長であった役人が急に衛生部長になるのはおかしいという主旨のことを新聞紙上に書いておられたが、現在の役人にとってはそういうことはなんらの不思議もない普通の事柄である。ある人を学務部長とする場合にも決してその人が教育事務の主任者として適当であるかどうかを考えるのではない、その人を役人としてある程度に昇進させる必要がある場合に、たまたまその必要なる昇進を与えるに適する地位が学務部長であれば、本人の知識技能いかんを問わずして学務部長に任用するのである。またある人が不良少年の教化に特別の興味を感じて少年審判所に勤めていても、官制の関係上その勤務をつづけるかぎり、ある程度以上に官等も上らず俸給も上ることをえない。したがって役人として相当の昇進を希望するかぎり、一生を不良少年の教化にささげるようなことは絶対に不可能である。だから特殊の専門的知識ないし技能を要すべき地位でも、決して必要な知識ないし技能を有する役人がそれを占めるとは限らないので、すべてはただ人繰りの関係から決められるのである。だから特殊の事務に興味を感じてそのほうの専門家になると、自然ほかに融通がきかないため、なかなか出世できない。そうしてほかから人繰りの関係上どんどん専門の知識なき役人が上役として転任してくる。だから出世という妄念をたちきってお寺にでも入った気でなければ、特殊行政の専門家になることはできないのである。
 むろんこういうことが官吏制度として望ましいことでないことはいうまでもない。すべての行政事務が実質的には比較的教養の足りない属官らの手中ににぎられて、長官はただ自身の出世を目標としつつ形式上その上に短期間すわっているというような実情が生ずるのはこれがためである。専門的知識をもたない、そうして任期の短い長官は、素人考えからいたずらに功績をのみ急ぐ。しっくりおちついて気永に考えるによってのみ適当に処理しうべき事務が個々の長官の個人的功名心満足の対象物になって実質的にその成績をあげえない。これでは下僚といえども真に身を入れて仕事をする気になれない。百害の因はまさにこの点に存するのであるが、現在の実情はまさにこのとおりである。
 だから私はこの実情に対して根本的革正の加えられることを希望してやまないのだが、今若い一人の役人としてこの官海に飛び込まれた君に対しては、ただ実情はかくのごときものだからそのつもりでいないと出世の妨げになるぞという忠言を与えるのほか何事もできない。このことは平素かなり理想家である君に相当の失望を与えるに違いないと想像するが、事実は事実だからどうにもならない。君もいやしくも出世を希望するかぎり、夢にも専門家になってはいけない。万事を広くかつ浅
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