簡単な――したがってみずから取り扱いやすい――概念的範疇を作っておいて万事をテキパキと処理しうる能力と度胸とができなければ決してよい役人にはなれない。これに反してこれができるようになると、彼は頭がいいとか腕があるとかいわれて、出世できるようになるのである。

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第三条 およそ役人たらんとする者は平素より縄張り根性の涵養に努むることを要す。
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 学校では、国家は矛盾なき一個の統一体である、と教える。だからすべての官庁は統一体たる国家の政治作用を分担するものとして国家目的のため互いに調和的に協働すべきものと観念されている。しかし実際の役所をそういうものと考えて役人になったら非常な間違いである。すべての役所はあらゆる機会を利用して自分の縄張りをひろげようと努力している。そのために常時積極的ないし消極的の権限争議をやっているのが現在の役所である。彼らは自己の縄張りを拡張したり維持するために、必要があると、国民の利益はもとより国家的利益をすら無視してなんらはばかるところがない。ある役所でなにか新しい仕事を始めようとすると必ずやほかの役所は主管事務の関係からいろいろと難癖をつける。そうして少しでもなにか利得を得ようとする。事が数省の主管に関係する重要事項であると、それに関する統一的制度を樹立する必要がいかに緊急でも、できるかぎりその統一せらるべき新制度を自己の主管下に置きたいという希望から、いろいろ互いにかけひきをする。それがため統一がおくれてもなんら介意するところがない。
 例えば、現在統一的水法の制定と水関係の行政事務を統一する必要が非常に大きいにもかかわらず、関係官庁たる内務、農林、逓信の三省はいずれも互いに協調してこの統一事業を進める誠意をもたない。のみならず例えば、ある一省がそれに関する準備事務を進めると、あたかも敵国に対して軍機を秘すると同じような態度で、調査資料を秘密にするようなことをする。われわれ国民の目からみれば、ともどもに必要な資料を蒐集し互いに協調して、一日も速やかに事を進めてほしい。しかるに、もっぱら縄張り争いに熱中する役人らには、全くそれができないのである。
 またよくみる実例だが、例えば甲官庁である新しい事務を始めようとすると、乙官庁からいろいろと難癖をつける。そして表面上は主管事務の関係からいろいろ理屈をいうものの、結局は自分のほうにも当該事務に関して多少とも費用がとれたり官制上人員を増加することができれば、それで妥協するような場合が非常に多いのである。
 こういうことを一々例をあげて説明するときりがないし、また多少関係者に気の毒な点もあるから具体的にはいわないが、その弊害たるや容易に外部から予想しえないほどはなはだしいのである。君も官海の生活に深入りしていくとおいおいに気づかれるに違いないと思うが、今からそのつもりで覚悟していないととんだ失策をすることがありうる。他省となにか協議する場合のごときかりにも妥協譲歩の態度を示してはいけない。万一そんなことがあると上長の縄張り精神を傷つけておのずから出世の妨げになる。つまらぬことだが、よくよく気をつけないといけない。

        ×      ×      ×

 純真な若い役人としての君に、こんな暗い話をするのは実に不愉快ではある。しかし君も必ずや出世の希望に燃えているのだろう。ことに君の両親は君の出世の一日も早かれと神かけて祈っているに違いない。それを思うと、不愉快であるが、やはり以上のことをお耳に入れざるをえない。
 実をいうと、今の××が君らに対して君らが期待するような光栄ある将来を約束しているかどうかについて、私は深い疑いをもっている。職工が特殊の技術を体得すべく努力するように、君らもおのおの得意とするところに精力を集中して、よい行政的職工になるように努力するほうがいいのかもしれない。そうして君らがその気になって出世を断念しさえすれば、君らの生活は今日からでももっと明るいものになるのかもしれない。ただ私は、今ここにこの点について、はっきりしたことを君にいいえないのをまことに遺憾とする。[#地から1字上げ](『改造』昭和六年八月号)



底本:「役人学三則」岩波現代文庫、岩波書店
   2000(平成12)年2月16日第1刷発行
初出:「改造」
   1931(昭和6)年8月号
入力:sogo
校正:noriko saito
2005年1月7日作成
2008年4月9日修正
青空文庫作成ファイル:
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