役人の頭
末弘厳太郎

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「法治主義」の研究は、現代の国家および法律を研究せんとする者にとって、きわめて大切である。私がそのことをいろいろと考えていた際、たまたま東京日日新聞社から何か書けという依頼を受けて、ふと筆をとったのがそもそも本稿の出来上った由来であって、内容は主として法治国と官僚主義との関係を取り扱ったものである。書いた時期は大正一一年の六月下旬である。
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       一

 子供の時からのくせで新聞を読むことが変に好きです。外国にいたときなど、むろん語学のまずいためでもあるが、どうかすると半日ぐらい新聞読みに時を費やしたことがあります。かつて高等学校にいたとき、ドイツ語の教科書としてヒルティーという人の『幸福論』なる本を読まされたことがあります。その中に新聞を読んではいけない、ことに朝一番頭のいいときに新聞のような雑駁なかつ平易なものを読むと一日中の仕事欲を害する、ということが書いてありました。非常に感心して同室者一同――私の部屋には変に頑強な男がそろっていたのですが――と申し合わせて、なんでも半年ぐらい新聞の購読を中止したことがありました。それでも新聞を読むことの好きな私にはどうもがまんができないので、そっと図書館で読んでいるところを同室者にみつかってひどくおこられたことなどがありました。そんなことを思い出してみると、私の新聞好きもずいぶん古いものです。
 今でも、毎朝たくさんの新聞を読みます。何がおもしろいのか知らないが、とにかくよく読みます。そうして読みながら種々のことを考えます。ところで、このごろの新聞を読んで、一番目につくのは何かというと、「殺人」、「情死」さては「大臣の待合会議」、「不正」、「疑獄」というような不愉快な文字がたくさん目につくのはもちろんのことですが、「人民の役人に対する不平」を記した記事の多いことは特に私の注意をひきます。そのうちから、最近最も私の注意をひいた一記事を例にひいて「役人の頭」という一文を草してみたいと思います。例証として引用する事柄を一つだけ引き離してみると、きわめて些細なできごとのように思われます。しかし、よくよく考えてみると事はきわめて重大です。これを機会に私は「人民の役人に対する不平」ひいては「国民の国家に対する不平反抗」という問題を多少考えてみたいのです。

       二

 今から一〇日ほど前の某紙寄書欄に一新帰朝者の税関の役人に対する不平が載っていました。それによると、税関の役人がその人の所持品を検査した際、一絵画のリプロダクションを発見して没収したという事件です。没収の理由はよくわかりませんが、多分わいせつの図画で輸入禁制品だというにあったのでしょう。
 外国帰りの旅客がわいせつないかがわしい春画類の密輸入を企てることは実際上かなり多い事実のようです。日本に帰れば相当の地位にもつき、また少なくとも「善良の家父」であるべき人々が平気でそういうことをやるという事実はわれわれしばしばこれを耳にします。風教警察の目からみて国家がその防遏に苦心するのは一応もっともなことです。
 けれども、今の問題の場合はそれではありません。没収された絵は春画ではありません。わいせつ本でもありません。それはイタリア、フィレンツェの美術館に数多き名画の中でも特に名画といわれているボッチッチェリー(一四四四―一五一〇年)の「春」(Primavera)です。それは「春」の絵に違いありませんが、決して「春画」ではありません。税関吏もまさかそんなしゃれを考えたわけではないのでしよう。やたらにただわいせつだと思って没収したに違いありません。そこで私は議論を進める便宜のためここにその画の写真を載せることを許していただきたいと思います。読者諸君は一応これを御覧の上、私のいうことを聞いていただきたいのです。

       三

 美術の専門家でない私には不幸にしてこの画についての詳しい適切な説明を与えることができません。けれども、一人の素人美術好きとしての私がかつてあの静かなフィレンツェのアルノ川に沿うて建てられた美術館の三階で、初めてこの「春」を見たときの感じ――それはとうてい私のまずい言葉や筆で十分に言い表わすことができるものではありませんが――を一言にしていうならば、それはむしろ「神秘的」な「ノイラステーニッシュ」なさびしい感じのするものでした。
 しかも、それはなんともいわれないふしぎな「力」をもったものでした。外国を遍歴中ずいぶんさまざまの絵を見ました。けれども、この絵の実物を初めて見たときの感じほど深く私の心にほりこまれているものはあまりたくさんありません。そのむしろ陰鬱な重苦しい、しかもどことなくなつかしみのあるやわらかい色合いを私は今なお忘れることができない。その現実離れをしていかにも神経をいら立たせるようなふしぎな形と線とは理屈なしに私を引きつけたのです。私は今でもなおあの時の第一印象をありありと思い起こすことができます。
 むろん私ごときものがどう思おうと、またよしんば天下の美術鑑賞家がいかに名画だということに一致しようとも、国家の風俗警察という目から見ればそこに必ずや独特の見解があるには違いありません。名画だから必ず絶対に風俗を壊乱しないとは限らないでしょう。名画を鑑賞するだけの能力をもたない低級な人間にとってはことにそうでしょう。私一個の考えでは「真の名画は絶対に風俗を壊乱することはない」と自信していますが、その考えを今ここで一般人に押しつけようとは思いません。
 しかし、今ここで問題になっているこの「春」を見て、もしもこれをわいせつだとか風俗を壊乱するとか思う人があるとすれば、私といえどもまたその人の眼と頭とを疑わずにはいられません。この画は誰が見てもむしろさびしい感じのする画です。またかりに全く絵画に趣味のない人が見たとすればなんだか変てこな画だと思うだけのことでしょう。しかしもしも、これを見てわいせつだと思ったり、多少なり劣情を感ずる人があるとすれば、それはよほど低級なアブノーマルな人間に違いありません。したがってあの記事にあったように、もしも税関の役人が旅客の十分な説明にもかかわらず、なおこれを理解しないでむりむたいに没収してしまったのならば、彼はよほど下等な変態的な趣味と性欲との持ち主であったか、または特に何か悪意をもってしたことだと私は断定したいのです。
 読者諸君はこの事件をもって一小下級官吏によってなされた些事なりとしてこれを軽々に付してはなりません。彼は一小下級官吏に違いありません。しかしこの具体的の事件について「国家」を代表したのは彼その人です。その以外の何者でもありません。外国から帰ってくる幾多の旅客がまず最初に接する「日本国」はすなわち彼です。そうしてその彼が旅客の携帯する「名画」のわいせつと否とを判断してその輸入の許否を決するのだと思えば、どうしてこの事件を一小事として軽視することができましょう。相手は「彼」一個人ではないのです。「国家」そのものです。この当該事件については「彼」の目、「彼」の頭がすなわち「国家」の目であり頭です。「役人の頭」を問題にしないで何としましょう。

       四

「役人の頭」だからといってわれわれ人民の頭とたいして違うわけはありません。だいたい同じような境遇に育ち、同じような教育を受け、同じようなものを食って生きている以上、「役人の頭」だけが特別なわけはない。彼らもわれわれと同じように、美しきを見ては美しと思い、悲しきを聞いては悲しと思うに違いありません。
 現在のいわゆる「法治国」においては役人はだいたい「法律」でしばられている。したがって、あまりわがままのきかぬようにはできあがっている。しかし、それでもまだかなりひろい範囲において自由裁量の権限を与えられています。すなわち役人は常に必ずしも「法律」という既定の標準のみによって事を裁断する必要なく、いつでもある程度においては自己の意見を加えて、自由の裁断をなしうるようにできています。しかも、その役人の自由裁量によって、われわれ人民は貴重な財産、自由、名誉、生命などまでをも奪われるようにできているのです。「法治国」とはいうものの実は恐ろしい話である。それにもかかわらず、われわれ人民が比較的驚かずに安心して生きているのは、彼ら「役人の頭」もだいたいわれわれ人民の頭と同様であろう、われわれが美しいと思うものは彼らも美しいと見てくれるであろう、またわれわれが悲しいと思うものは彼らもまた悲しいと聞いてくれるであろう、とこう思えばこそである。われわれは役人もまたわれわれとだいたい同じような心意作用をもつであろうという信頼のもとに、とにかく安心して生きているのである。
「役人」はわれわれ人民にくらべて特別に上等だとか、特別に公平だとか、特別に国に忠義だとかいうように考えて、彼らに信頼しているのではない。もしも、そんな特別なものであって、われわれ普通の人民とは全然別個の世界に住んでいるものだとすれば、われわれは「役人心理学」とでもいうような特別な講義をきいた上でないと、安心してこの世に生きながらえることができないわけです。しかるに幸いにも、われわれ人民が特にかかる講義をきく必要もなく、また特に法律の知識がなくとも、だいたい良心と常識とに従って行動していさえすれば、まずまず「役人」にしかられずにすむのは、役人もまたわれわれと同じ人間だからです。
 このことはあらためてことごとしくいうまでもないきわめて当然な事柄である、と私は考えます。しかるに実際において、われわれがときどき耳目にする役人の行動はややともすれば私のこの信念を裏切ろうとします。そうしてそのたびごとに、私は「役人の頭」を疑わざるをえなくなるのです。なんとなく自分らもあの役人のもとで安心しているわけにはいかぬ、役人のほうでどうにかなってもらうか、ないしはああいう「頭」の役人がいなくなるような仕組みをつくらなければ安心していられないような気がするのです。
 私のような比較的「役人」に近い学問を専門とし、「役人養成所」だと世間から悪口をいわれている帝国大学の法学部に職を奉じ、役人にたくさんの知己をもっている者ですら、とかくそう思われてならないのである。してみれば、世間普通の人々の目には現在の「役人の頭」がもっとよほど変に映っているのではあるまいか。そうして彼らのうちの多数者たる利口者は、「役人」はああいうもの、「国家」はこういうものと大きくあきらめて、長いものには巻かれるほかないと考え、また彼らのうちの皮肉屋は、冷眼をもって「役人」と「国家」とをながめて、これに嘲罵と皮肉とをあびせ、なおまた彼らのうち勇気ある反逆者たちは、かくのごとき「役人」とこれによって代表される「国家」に向かって、いむべきのろいの声をあげているのではあるまいか。私にはどうしてもそう思われてならないのです。

       五

「役人」はよく「近頃の若い者は国家心がうすくて困る」という。しかし、私は事実なかなかそうではない、今日の若い者の大多数は今日なおかなり熱心な国家主義者だと思う。がもしも、今の若者に多少なりとも、国家をきらうふうがあるとすれば、その最も大きな責任者は「国家」を代表する「役人」であるように思われてならない。
 役人や長老たちはややともすれば、若者のこの傾向をもって「外来思想」の結果なりとする。なるほどそれも多少あろう。けれども、「外来思想」はただ彼らを目ざめしめただけのことである。目がさめて目を開いて彼らが見たところの「国家」さえ事実において善美を尽くしていたならば、彼らの目ざめはむしろ慶すべきことでこそあれ、なんら恐るるに足りないのです。しかるに、目ざめた彼らが、事
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