実多少なりとも国家に向かって不満をいだくとすれば、それは「国家」すなわち国家を代表する「役人」の罪である。「国家」をしてかくのごときものとみえしめている「役人」の罪である。
役人も個人としてみれば――多少の例外を除くほか――すべて普通の人間です。立派な同胞であり、親であり、夫であり、子であります。ところが、それがひとたび「国家」を代表して外に対するときは突如として一変します。その際の「彼」は単なる「役人」であって、その本来の「個人」とは全く縁のないものになるのです。そうして従来の官吏道徳においては役人がかくのごとくになればなるほど、「公平無私」だとか、「忠誠恪勤」だとかいってそれを賞めるようです。しかし、いったい事はそれでいいのでしょうか? 私は心からそれを疑うのです。
むろん役人はみだりに私情をはさんで不公平やわがままをしてはなりません。なぜならば、彼らはそういう目的のために役人の地位を与えられているのではありませんから。けれども、さらばといって、彼らが「国家」を代表する際には、全く人情も忘れ人間味を離れて、いわゆる「公平無私」の化身になりさえすればいいかというに、否、決してそうではない。彼らによって代表される「国家」もわれわれ人間の世界に出てきていろいろなことをする。われわれはいやでも「国家」とつきあわねばならない。それならば、「国家」もまたごくつきあいやすい普通の人間のごときものでなければ、とうていよく普通の人民と調和して社会生活を営んでゆくことのできるわけはありません。そうして「国家」をしてかくのごときものたらしめるものはただ一つこれを代表する「役人」あるのみであることを考えると、役人もまた決して形式的な「公平無私」の化身になっていさえすればいいというような簡単なものではない。彼らは「国家」をして普通の人間のごとく、道徳的なかつ親しみやすいつきあいいいものたらしめねばならぬ、きわめて困難な地位にあるのです。
ところが役人はとかく、うち人民に向かって形式的な法規をふりまわすのみならず、そと他国に対してもへりくつを並べたがります。そうしてそのたびごとに国家の信用を内外に向かって失墜しつつあります。
六
私の考えでは、従来の法律家は――否、普通一般の人々も――法律の領分を不当にひろく考えすぎているように思います。私は、国民一般の心意としても、また役人の心掛けとしても、「法律の世界」はわれわれの日常生活とは離れた別個の世界だ、と考えているほうがいいのだと思います。われわれは日常「人間の世界」に住んでいる。その世界では「良心」と「常識」とに従って行動していさえすればいいのであって、また普通の人にとってはそれだけで差支えないことになっていなければ困るのです。なるほど、人が集まって社会生活を営む以上、必ずやなんらかの形式において、国家を形成せねばならないが、国家がある以上はまた必ず法律がなければならない。なぜならば、各人の「良心」と「常識」とにのみ信頼して団体生活を営むことは事実とうてい不可能であるから。
それで「法律」は多くの場合、幸いにも「良心」と「常識」とに適合するようにできているから、われわれが日常生活において「良心」と「常識」とに従って行動していることは同時に「法律」に従っていることになる。そうしてそれがまず通常の場合であるために、ややともすれば「人間はすべて――みずからは『法律』を知らぬために気がつかないけれども、実は――『法律』によって日常生活を行動しているものと解すべきだ」というような考えが生まれるのです。けれども私をしていわしめるならば、その場合でも、人間はただ「良心」と「常識」とに従って行動しているのであって、「法律」によって行動しているのではない。ただ事件が裁判所その他国家のお役所に行ったときに初めて「国家の尺度」すなわち「法律」によって価値判断を受けるだけのことだ、と説明したいのです。例えば、われわれが他人から金を借りたとしても、民法になんと書いてあり刑法になんと書いてあるから、返すのではありません。われわれはただ常識上借りたものは返すべきだと考え、返さなければなんとなく気がとがめるだけのことです。これを一々法律がああ命じているからやっていると考えるのは、普通人の決してなさざるところであり、なすべからざるところである。
もしも、われわれが日常生活において一々法律のことを考えねばならぬとすれば、きわめてこっけいなことになる。第一たいがいのことをするのに必ず証拠をとっておかなければならない。例えば、ささいな買物にも一々請取りをとり、友人間のわずかな貸借にも証文を要求し、はなはだしきに至ると日常の書信も一々内容証明郵便配達証明附きで出さねばならぬようなことになります。しかし、もしも誰か実際にそんなことをやる人があれば、たちまち世の中から排斥されるに決まっています。変な奴だとか、勘定高い奴だとか、つきあいにくい男だとか、いってつまはじきされるに違いありません。ところが、法律家の中にはともすればそういうことを考えている人があります。
法治国の人民といえども、「常識」と「良心」とに従って行動していさえすればいいのです。またそうなくては困ります。法治国民はいざ裁判所なりお役所なりに出た場合に、法律を知らなかったといって抗弁することは許されない。すなわちひとたび「法律の世界」に入った場合には、法律という尺度によって価値判断を受けることをあらかじめ覚悟していなければならない。しかし、それは決して平素「人間の世界」の活動をするに際しても法律をそらんじ、これに従って行動せねばならぬという理由にはなりません。法を知らざることそれ自体は決して不徳ではない。徳と不徳とは常に道徳によって定まるのである。むろん、国家といい、法律といっても、人間が団体生活をなすについての必要品である。いやしくも団体生活をなす以上、とにかくそのおかげをこうむっているものとみねばならぬ。したがって常識上誰しも知っていてしかるべき法律を知らずにおりながら、ひとたびその適用を受けると、不平を唱えるというがごとき得手勝手は道徳上もまたこれを許しがたい。しかしさらばといって、法の不知は当然道徳上非難さるべきことのように考えるのは非常な誤謬であると、私は考えます。
七
しかし私が以上の説をなすのは、決して読者に向かって「法の不知」を奨励しているのではありません。諸君も国をなしている以上、法律を知るほうがいいのです。なぜならば、諸君がみずから正しいと思っている自己の「常識」と「良心」とが、客観的には正しくないこともありうるし、またたとえそれが正しくても不幸にして法律の命ずるところには違背していることもありうるのですから。しかもそれにもかかわらず、私は諸君に向かって「諸君は法律は知らずともいい、しかし常識と良心とに従って行動せねばならぬ」ということを高唱したいのです。そうしてそれは現在のわが国にとって最も必要な考え方だと私は信ずるのです。
われわれが目常生活を営むにあたっては、「良心」と「常識」とのみを標準としていさえすればいい。法律のことは「法律の世界」に入ったときに考えさえすればいい。日常生活に法律は禁物である。もしそうでなくて、われわれの行動が常に必ず法律を標準としてなされねばならぬものだと仮定すれば、われわれ普通の人間は、多くの場合、行動の標準の知りがたきに苦しまねばならぬ。またともすれば、法律に従って行動していさえすれば、他の点はどうあろうとも、「国民」として正しく行動しているものとみるべきだというような謬見をよびおこし、もしくは「その場の議論に勝ちさえすればいい」とか、「免れて恥なし」というような気風を醸成するおそれがあります。イギリスの諺に「よき法律家はあしき隣人なり」という言葉があるそうです。日本でも、なまはんか法律を学んだ都帰りの法律書生は農村の平和擾乱者です。法律を知っている者はとかく法律をふりまわしたくなる。「常識」と「良心」とに従って行動することを忘れて、法律を生活の標準にしようとします。その結果、彼はついに「あしき隣人」となるのです。それゆえに私は国民に向かって「法律を知れ」とすすめる前に、むしろその「良心」と「常識」とを正しきものたらしめよと説きたいのです。
ところが、私らのような法律を扱うのをもって職業とする者、その他大臣以下諸役人、議員、裁判官、弁護士らは平素あまりに法律に近づきすぎる。その結果ややもすれば、法律をもって百般を律しやすい。「常識」と「良心」とによって、これを判断することを忘れやすい。私は近時の議会その他政治界をみてことにその感を深くするのです。
私はこの際世人一般はもとより、法律家ことに役人は、かのキリストのいった「カエサルのものはカエサルに返せ、神のものは神に返すべし」という言葉を深く味わわねばならぬと思います。
八
普通の人間が「法律の世界」に入ってみても別にたいして驚かない、「人間の世界」におけるとだいたい同じように事が運んでいる、ということになっていなければ、法律と国家との威信はとうていこれを保ちがたい。法律と社会との問に溝渠ができることは国家の最も憂えるところでなければならない。かくのごときは国家の不徳です。国家は全力を尽くしてその救治をはからねばなりません。
古来、暴君はしばしばその救治策として「道徳」を命令してみました。そうして人民をして暴君みずからの欲する法に近づかしめようとはかりました。現在わが国の政治家、ことに警察ないし司法に関係している役人の中には、今日なお同じような思想をいだき、法をもって「淳風美俗」をおこそうと考えているものが少なくないようです。しかし、この策が古来一度も成功しなかったこと、ことに近世に至っては全く失敗に終っていることは歴史上きわめて顕著な事実です。
そこで、近世的国家はこれと全く正反対な方策を考えはじめました。すなわち人民をして「法律」――暴君の命令――に近づかしめる代りに、国家みずからが進んで「人間」に近づくことを考えました。その考えが制度になって現われたものが、議会政治であり陪審制度であり、またなにびとといえどもすべていかなる役人にもなりうるという今日の制度です。また法律の上でも、例えば民法第九〇条の「公ノ秩序ハ善良ノ風俗ニ反スル事項ヲ目的トスル法律行為ハ無効トス」というような規定は全く右と同じ考えの現われたものであって、学者はこれを総称してデモクラシーといいます。以下私はこれらのうち当面の問題に最も関係の深い「なにびとといえどもすべていかなる役人にもなりうる」という制度のことを考えてみたいと思います。
昔は「人民」と「役人」とは全く別の世界に住んでいました。したがって役人の世界すなわち「法律の世界」と「人間の世界」との間に大きな距離のあることは当然でした。それでも当時の人間は仕方のないものとあきらめていたのです。ところが近世になると、もはや人間はそれに満足することができなくなって、「役人の世界」と「人民の世界」との接近を要求しはじめました。しかし、それがために発明された制度がすなわち「なにびとといえどもすべていかなる役人にもなりうる」という今日の制度です。この制度の眼目は、「人間の世界」から人をつれてきてかりにこれをして「役人」の地位につかしめ、これによって「役人」したがってこれによって代表せられる「国家」の考え方をしてだいたい普通の人間のそれと同一ならしめんとするにあります。これによって従来は「役人」という全く別の世界の人間によってつかさどられていた仕事がともかくも「人間の世界」から出た役人によって取り扱われるようになり、その結果、人間は大いに安心することができるようになったのです。
元来、法治国はあらかじめ作っておいた法律すなわち尺度によって万事をきりもりしようという制度です。そうして近世の人間は公平と自由との保障を得んがために憲法によってその制度の保障されることを要求した
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