いい。日常生活に法律は禁物である。もしそうでなくて、われわれの行動が常に必ず法律を標準としてなされねばならぬものだと仮定すれば、われわれ普通の人間は、多くの場合、行動の標準の知りがたきに苦しまねばならぬ。またともすれば、法律に従って行動していさえすれば、他の点はどうあろうとも、「国民」として正しく行動しているものとみるべきだというような謬見をよびおこし、もしくは「その場の議論に勝ちさえすればいい」とか、「免れて恥なし」というような気風を醸成するおそれがあります。イギリスの諺に「よき法律家はあしき隣人なり」という言葉があるそうです。日本でも、なまはんか法律を学んだ都帰りの法律書生は農村の平和擾乱者です。法律を知っている者はとかく法律をふりまわしたくなる。「常識」と「良心」とに従って行動することを忘れて、法律を生活の標準にしようとします。その結果、彼はついに「あしき隣人」となるのです。それゆえに私は国民に向かって「法律を知れ」とすすめる前に、むしろその「良心」と「常識」とを正しきものたらしめよと説きたいのです。
ところが、私らのような法律を扱うのをもって職業とする者、その他大臣以下諸役人、議員、裁判官、弁護士らは平素あまりに法律に近づきすぎる。その結果ややもすれば、法律をもって百般を律しやすい。「常識」と「良心」とによって、これを判断することを忘れやすい。私は近時の議会その他政治界をみてことにその感を深くするのです。
私はこの際世人一般はもとより、法律家ことに役人は、かのキリストのいった「カエサルのものはカエサルに返せ、神のものは神に返すべし」という言葉を深く味わわねばならぬと思います。
八
普通の人間が「法律の世界」に入ってみても別にたいして驚かない、「人間の世界」におけるとだいたい同じように事が運んでいる、ということになっていなければ、法律と国家との威信はとうていこれを保ちがたい。法律と社会との問に溝渠ができることは国家の最も憂えるところでなければならない。かくのごときは国家の不徳です。国家は全力を尽くしてその救治をはからねばなりません。
古来、暴君はしばしばその救治策として「道徳」を命令してみました。そうして人民をして暴君みずからの欲する法に近づかしめようとはかりました。現在わが国の政治家、ことに警察ないし司法に関係している役人の中には、今日なお同じような思想をいだき、法をもって「淳風美俗」をおこそうと考えているものが少なくないようです。しかし、この策が古来一度も成功しなかったこと、ことに近世に至っては全く失敗に終っていることは歴史上きわめて顕著な事実です。
そこで、近世的国家はこれと全く正反対な方策を考えはじめました。すなわち人民をして「法律」――暴君の命令――に近づかしめる代りに、国家みずからが進んで「人間」に近づくことを考えました。その考えが制度になって現われたものが、議会政治であり陪審制度であり、またなにびとといえどもすべていかなる役人にもなりうるという今日の制度です。また法律の上でも、例えば民法第九〇条の「公ノ秩序ハ善良ノ風俗ニ反スル事項ヲ目的トスル法律行為ハ無効トス」というような規定は全く右と同じ考えの現われたものであって、学者はこれを総称してデモクラシーといいます。以下私はこれらのうち当面の問題に最も関係の深い「なにびとといえどもすべていかなる役人にもなりうる」という制度のことを考えてみたいと思います。
昔は「人民」と「役人」とは全く別の世界に住んでいました。したがって役人の世界すなわち「法律の世界」と「人間の世界」との間に大きな距離のあることは当然でした。それでも当時の人間は仕方のないものとあきらめていたのです。ところが近世になると、もはや人間はそれに満足することができなくなって、「役人の世界」と「人民の世界」との接近を要求しはじめました。しかし、それがために発明された制度がすなわち「なにびとといえどもすべていかなる役人にもなりうる」という今日の制度です。この制度の眼目は、「人間の世界」から人をつれてきてかりにこれをして「役人」の地位につかしめ、これによって「役人」したがってこれによって代表せられる「国家」の考え方をしてだいたい普通の人間のそれと同一ならしめんとするにあります。これによって従来は「役人」という全く別の世界の人間によってつかさどられていた仕事がともかくも「人間の世界」から出た役人によって取り扱われるようになり、その結果、人間は大いに安心することができるようになったのです。
元来、法治国はあらかじめ作っておいた法律すなわち尺度によって万事をきりもりしようという制度です。そうして近世の人間は公平と自由との保障を得んがために憲法によってその制度の保障されることを要求した
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