も、また役人の心掛けとしても、「法律の世界」はわれわれの日常生活とは離れた別個の世界だ、と考えているほうがいいのだと思います。われわれは日常「人間の世界」に住んでいる。その世界では「良心」と「常識」とに従って行動していさえすればいいのであって、また普通の人にとってはそれだけで差支えないことになっていなければ困るのです。なるほど、人が集まって社会生活を営む以上、必ずやなんらかの形式において、国家を形成せねばならないが、国家がある以上はまた必ず法律がなければならない。なぜならば、各人の「良心」と「常識」とにのみ信頼して団体生活を営むことは事実とうてい不可能であるから。
それで「法律」は多くの場合、幸いにも「良心」と「常識」とに適合するようにできているから、われわれが日常生活において「良心」と「常識」とに従って行動していることは同時に「法律」に従っていることになる。そうしてそれがまず通常の場合であるために、ややともすれば「人間はすべて――みずからは『法律』を知らぬために気がつかないけれども、実は――『法律』によって日常生活を行動しているものと解すべきだ」というような考えが生まれるのです。けれども私をしていわしめるならば、その場合でも、人間はただ「良心」と「常識」とに従って行動しているのであって、「法律」によって行動しているのではない。ただ事件が裁判所その他国家のお役所に行ったときに初めて「国家の尺度」すなわち「法律」によって価値判断を受けるだけのことだ、と説明したいのです。例えば、われわれが他人から金を借りたとしても、民法になんと書いてあり刑法になんと書いてあるから、返すのではありません。われわれはただ常識上借りたものは返すべきだと考え、返さなければなんとなく気がとがめるだけのことです。これを一々法律がああ命じているからやっていると考えるのは、普通人の決してなさざるところであり、なすべからざるところである。
もしも、われわれが日常生活において一々法律のことを考えねばならぬとすれば、きわめてこっけいなことになる。第一たいがいのことをするのに必ず証拠をとっておかなければならない。例えば、ささいな買物にも一々請取りをとり、友人間のわずかな貸借にも証文を要求し、はなはだしきに至ると日常の書信も一々内容証明郵便配達証明附きで出さねばならぬようなことになります。しかし、もしも誰か実際にそんなことをやる人があれば、たちまち世の中から排斥されるに決まっています。変な奴だとか、勘定高い奴だとか、つきあいにくい男だとか、いってつまはじきされるに違いありません。ところが、法律家の中にはともすればそういうことを考えている人があります。
法治国の人民といえども、「常識」と「良心」とに従って行動していさえすればいいのです。またそうなくては困ります。法治国民はいざ裁判所なりお役所なりに出た場合に、法律を知らなかったといって抗弁することは許されない。すなわちひとたび「法律の世界」に入った場合には、法律という尺度によって価値判断を受けることをあらかじめ覚悟していなければならない。しかし、それは決して平素「人間の世界」の活動をするに際しても法律をそらんじ、これに従って行動せねばならぬという理由にはなりません。法を知らざることそれ自体は決して不徳ではない。徳と不徳とは常に道徳によって定まるのである。むろん、国家といい、法律といっても、人間が団体生活をなすについての必要品である。いやしくも団体生活をなす以上、とにかくそのおかげをこうむっているものとみねばならぬ。したがって常識上誰しも知っていてしかるべき法律を知らずにおりながら、ひとたびその適用を受けると、不平を唱えるというがごとき得手勝手は道徳上もまたこれを許しがたい。しかしさらばといって、法の不知は当然道徳上非難さるべきことのように考えるのは非常な誤謬であると、私は考えます。
七
しかし私が以上の説をなすのは、決して読者に向かって「法の不知」を奨励しているのではありません。諸君も国をなしている以上、法律を知るほうがいいのです。なぜならば、諸君がみずから正しいと思っている自己の「常識」と「良心」とが、客観的には正しくないこともありうるし、またたとえそれが正しくても不幸にして法律の命ずるところには違背していることもありうるのですから。しかもそれにもかかわらず、私は諸君に向かって「諸君は法律は知らずともいい、しかし常識と良心とに従って行動せねばならぬ」ということを高唱したいのです。そうしてそれは現在のわが国にとって最も必要な考え方だと私は信ずるのです。
われわれが目常生活を営むにあたっては、「良心」と「常識」とのみを標準としていさえすればいい。法律のことは「法律の世界」に入ったときに考えさえすれば
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