のです。ところが人間というものはきわめてわがままかってなもので、一方には尺度を要求しながら、他方においてはその尺度が相当に伸縮する、いわば杓子定規におちいらないようなものであることを希望しておるのです。それは明らかに矛盾した要求です。しかし事実だから仕方がありません。国家はなんとかしてこれを満足させねばなりません。そうして政治の実際において、その矛盾した要求を適当に満足させているものは、すなわち「役人」である。
万事をあらかじめ法律で決めておくことは事実上とうてい不可能なことであるのみならず、生きものである人間は決してかくのごときことを好まない。そこで、一方においては法律をもって大綱を決めつつ同時に他方においてはその具体的の活用をすべて――人民と同じ世界の人間であるところの――「役人」に一任して、公平と自由とを保障しつつ、しかも同時にある程度に動きのとれるようにすることを考えたのが、すなわち今日の法治主義です。したがって法治主義のもとにおいて最も大切なことは、むろん一方においては法律をして真に「人間の世界」の要求に適合せしめることであるが、他方においては「役人」もまた普通の人間と全く同じものの考え方をするということです。それでこそ人民は安んじて国家に信頼することができるのであって、「役人」を「人間の世界」から採用する今日の制度の妙用は実にこの点にあるのです。
九
法治主義のもとにおける最小限度の要件は「役人」がわれわれとだいたい同じような考え方をしてくれるということです。「役人」もわれわれと同じように、美しきを見ては美しいと思い、悲しきを聞いては悲しいと泣いてくれてこそ、われわれも安心できるのである。ところが現在の実際はともすれば、この理想を離れがちになります。それははたしてなぜでしょうか? 私はそれを解して、せっかく「人間の世界」から借りてきた「役人」が、その昔「役人の世界」に住んでいた代りに、今度はまた新たに「法律の世界」という新しい別世界に住みたがるためだといいたいのです。すなわち、せっかく骨を折って作り上げたデモクラシーが精神を失って再び官僚主義におちいらんとしているためだといいたいのです。
せっかく役人を「人間の世界」から借りてくることを発明して、人間と法律との親しみを作ろうと考えた。ところが、その役人がひとたび「法律の世界」に入ると、「人間の世界」と違った考え方をするようになる。むろん、その昔、役人が「人間の世界」とは全く離れた「役人の世界」に住んでいたころには、その全生活が公私ともにすべて「人間の世界」のそれとはかけ離れたものでありました。これに反して、今の役人は「法律の世界」に入ったときだけ特別な考え方をする。そうして一時「人間の世界」から離れる。または少なくとも離れねばならぬもののように考える。これははたしてなにゆえであろうか。
その原因はいろいろあります。しかし、そのうち最も大きい原因は、すべていかなるできごとでもそれが役人の目に触れるときにはすでに「法律の世界」のことに化していることにあるのだと思います。元来は人間の世界に起こった事柄でも、それが役人の目に触れるのはいよいよ役所の門をくぐってからである。したがって役人がひとたび役所の門をくぐると、「法律の世界」のこと以外なにものにも接しなくなる。そこで「人間の世界」にあっては、よき夫であり、よき友であり、よき市民である人も、ひとたび役人として行動することになると、ともすれば「法律の世界」に特有な考え方のみをするようになるのです。そうして役人は公私を混淆してはならぬとか、公平無私でなければならぬとかいうような言葉の形式のみにとらわれて、根本はどこまでも「人間」らしくなければならぬ、ただその上さらに、いっそう公平無私となり、公私を混淆せざることにならねばならぬ、という根本義を忘れがちになります。
ことに、法治主義のもとにおける役人は法律によってかなりの程度に裁量の自由を制限されています。したがってうっかり融通をきかせた処分をやってしかられるよりは、まずまず法律の命ずるところを形式的に順奉していさえすれば間違いがない。そのほうが得である。第一、骨が折れなくていい。役人が一度こう考えたが最後、彼はただ法律を形式的に順奉することだけを心がけるようになり、法律の目的や役人の職分を忘れるようになる。ここで立派な官僚が出来上るのです。
元来、法治主義はあらかじめ法律を決めておいて役人の専恣を妨げ、これによって人民の自由を確保する目的でできた制度である。しかるに、その法律がかえって役人の官僚的な形式的な行動に対する口実となってしまう。かくのごときは決して法治主義本来の目的ではなかったのです。しかし一方において役人を法律によってしばれば――ことに
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