しばりすぎれば――その当然の結果として役人の行動が形式化しやすいのは当然です。なぜならば、自由のないところに責任は生まれないから。換言すれば、法治国はきわめて官僚主義におちいりやすい素質をもったものだといいうるのです。ただその素質、傾向をしてあまりはなはだしきに至らしめない唯一のよりどころは役人の心がけです。これ私が「役人の頭」のみが今日の国家制度を生かしてゆく唯一の頼りだというゆえんであります。

       一〇

 次にまた役人は大なる権力の持ち主です。「人間の世界」は別として、ひとたび「法律の世界」に入ったが最後、その世界に通用するだけの是非善悪は、ともかくも、すべて役人によって認定されることになっています。むろん役人といえども法律によって大いに束縛されている。また下級の役人の判断は上級の役人によって監督され批評される仕組みにできている。けれども、訴訟手続がめんどうにできているとか、また証拠をあげることが困難であるとか、その他種々の理由によって、たとえ役人のあやまった不当な判断によって権利利益を害された者でも、事実上、上級の役人に訴えてその批判を受けることが困難になっています。このことは現在の行政庁系統の役人によって権利を害された場合につき最も多くみる例であって被害者は結局泣き寝入りになるのほかない。したがって役人は法律によってしばられているものの、国民に対する関係においては、法律上ないしは事実上なお大きな「専断力」をもっているのです。しかし、役人にかかる専断力を与えるのは制度の必要上やむなきに出た事柄であって、いささかたりとも役人がその専断力を濫用することは事物本来の性質上断じて許すべからざるところなのです。しかるに役人はややともすれば、事をビジネスライクに運ぶため、またはその威儀を保つために、専断力を濫用します。それはきわめて恐るべきことです。いったい法律上または事実上、専断力、モノポリーの力をもっている者は大いに慎まねばなりません。なぜならば、常に必ず多少のむりがきくからです。けれども、それはその者にとって最も危ないことなのです。ところが役人はややともすれば、それをやりがちなものであって、その結果、国家までをも国民憎悪の的たらしめるに至るのです。
 国家は法律の府です。けれどもまた同時に、われわれ「人間の世界」にきたってともに事をします。したがって、
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