したように、現在法学といわれている学問の大部分は、「何が現行法であるか」の説明に当てられている。そして学者は一般に、これを「解釈法学」と名づけているが、それは法令の解釈を通して法を見出すことが主な仕事になっているためである。しかし、以上の説明でもわかるように、実際には法令の解釈によって法を見出すと言っていながら、実は法を作っていると考えられる事例が稀でないのみならず、場合によっては、全く法令を離れて何が法であるかが説かれていることさえある。そのうえ法令の解釈によって法を見出すといわれている場合でさえも、それによって見出される法が解釈者によって必ずしも一でなく、同じ法規が人々によっていろいろ違って解釈されている場合が少なくない。それでは、一体かくのごとき解釈上の意見の違いはどこから生れてくるのか。
その原因の第一は、広い意味での解釈技術に関する考え方が、人によってかなり違っていることである。その違いは実際上いろいろの形で現れているが、その最も顕著な例としては、或る人々が法令の形式的ないしは論理的解釈を通して法を見出し得る限度を非常に広く考えているのに反して、他の或る人々はそれを比較的狭
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