小知恵にとらわれた現代の法律学
末弘厳太郎
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概念的に美しく組み立てられた法律学がだんだんと世間離れしてゆくことは悲しむべき事実である。そうしてそれは従来の法律学がその対象たる「人間」を深く研究せずして単純にそれを仮定したことに由来するのである。その意味において私は現在の法律学を改造する第一歩として一種のロマンチシズム運動が必要だと考えるのである。この文章は元来「法律学における新浪漫主義」と題して大正一〇年の春、中央法律新報社主催の通俗講演会のためにやった講演の速記に手を入れて出来上ったものであって、もともときわめて通俗的なものである。これを本書[#「嘘の効用」]に採録するについて標題を改めた理由は、私はみずからの主張にみずから何々主義というような名をつけることはあまり好ましくないと考えたからである。
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一 緒言
法律というものはむずかしいものです。ところがそのむずかしい法律の話をわざわざ三〇銭も出して諸君が聴きに来るのですから、そこにはそれ相当の理由がなくてはならないと思います。それで私は、諸君が法律に対してなにか興味をもたれ、また同時にある不足を感じておられる、その不足を充たすべき何物かをどこかに求めたいという希望が諸君の足を自然ここに引きつけたのではあるまいかと考えております。
ところで、法律はそんなむずかしいものでしょうか、またむずかしかるべきものでしょうか? 学者や法律家はよくこんなことを申します。「法律は別にむずかしいものではない、素人にはわからないかもしらぬが、われわれには非常によくわかっている」と、こう申すのです。ところが私など一〇年あまりもだんだんと法律学を研究してみましたが、法律学は依然としてむずかしく、そうしてわれわれ法律家にとってもいやに不自然なむずかしいことがたくさんあるように思われてならない。どうもわれわれの本当の人間らしいところに何かしっくりと合わない点があるように思われてならない。そうしてその感じは時とともにだんだん強くなるばかりです。
私が外国に行く前によくこんな話を聞きました。イギリスでは法律を学ぶためにロンドンの弁護士や裁判官を養成する学校に通う。そうしてその学校を卒業するためには一定の年限の間学校の食堂で飯を食わなければいけない。飯を食うことが日本でいえば法学士になる一つの要件である。その飯を食わなければ裁判官や弁護士にはなれない。その話を聞いたときに私は、イギリスには古来の伝習にもとづいて今日ではもはやなんら意味のないことがたくさん行われている、この飯を食うのも多分その例にすぎないのだろうと簡単に考えていました。ところが日本をたってアメリカに行ってみると、アメリカの大学における法律の教え方をみて第一に驚かされました。いったい日本では先生が高い壇へあがって非常にえらそうな顔をしてせきばらいをしながら、ひげをひねりつつもったいぶって講義をする。生徒はまるで蟹のようになって筆記をしている。これが日本の法律の教え方である。ところがアメリカでは最初一年生に法律を教えるのにでもそんなことはしない。裁判所の判決例を集めたかなり厚い本を各生徒にあてがう。そうして生徒は法律もなにも知らないのだが、とにかく先生の指図に従って下読みをして行く。ところが先生が「誰々! この事件は何が書いてあるか」と法律もなにも知らぬ者に対して質問する。生徒は「これこれこういうことが書いてある」と答える。すると先生はだんだんに追及して、ついには生徒みずからむりやりに正確なことをいわなければならないようにもちかける。その結果、法律を教える教場に行くと、あたかも討論会でもやっているようで、生徒と生徒とが討論する。先生がまた中に入って指導しかつ討論の相手にもなる。そうして結局法律の原則は生徒みずから自分の努力で探し出すようにさせる。何のためにこんな教え方をするかというと、例えば化学を教える際に先生が頭から「これは何とか何とかなり」とえらそうな顔をして教えるよりは、生徒自身をして実験をさせてみずから原理を会得させるほうがいい。それと全く同じ考えを法学教育に応用したものです。これが現在のアメリカ法律の教え方ですが、この方法の実際に行われるところを毎日毎日みていると、だんだんと今お話ししたような長所が目についてくるとともに、ほかにいっそう大事な長所を発見しました。それはほかでもありません。従来日本の法律学者は人というものを、ただ理屈や小知恵や理知の持ち主として取り扱います。ところがわれわれが朝から晩までなしたことをあとから反省してみると、たくさんの行為の中には、自分の理知を標準とし理知のみにもとづいてすることが多いか、それともあるいは憤慨してみたり、あるいは赫怒してみたり、あるいは美術を見、音楽を聞いて非常に感心してみたり、なにかわからず朝から晩までの間に、われわれはとうてい理知をもって律すべからざる、実にいろいろなことをするものです。ところで法律というものはわれわれが朝から晩までするいろいろなことをそれぞれ法律の型に入れて、あるいは刑罰を科してみたり、あるいは金を借りたのならば返さねばならぬというようなふうに決めるものです。いわばわれわれが朝夕なすところを法律的見地から規律するもの、それが法律です。それならば人間をただ理知の持ち主としてのみならず、あらゆる心理作用の持ち主として取り扱い、そのありのままの人間を法律の上にも踊らせ、かかる自然の人間として法律が規律し、学者が説明することにしてはどうだろうか。こう考えてきたときに、今申しましたアメリカ式の法律の教え方には、この私の希望が自然に実現されていることを私は感じたのです。先ほども申しました学生のもっている判例集には判決の事実がそのまま書いてある。それをよく読んでくる。そうして討論をする。世の中の出来事がそのまま教室において生徒の眼の前に展開されるのです。そうして結局裁判所はこれこれの事実なるによりこれこれに判決を下したと、先生が最後に教えてくれる。先生は理屈よりも生徒をよい方に導くことに全力を尽くしているのです。しかるに日本の先生は壇の上からえらそうな顔をして抽象的な原則のみを教える。したがって真に人間の世の中を離れない生きた本当の法律を教えることができない。法律はどうしても人間味を離れた変なものにならざるをえないのです。アメリカの教え方をみるに、先生は学生にまっさきに判決例を読ませている。したがって、かくして教えられる法律は、われわれが小さな理知をもととして研究したり教えたりする法律にくらべると、はるかに複雑なものである。すなわち人間の情けも出れば涙も出てくる。あるいは怒りあるいは喜ぶ。そのすべての事柄が法律の上に出てきている。かくして法律が取り扱われるところをみると、なるほど法律というものは非常に複雑なものであると同時に、人間離れのしているものではないということに誰しも気がつくのであります。ここに至って初めて私は先に申しましたイギリスにおいて学生たちが学校の食堂で一定の年限飯を食わなければ法学士になれない理由がわかったのです。つまり、たとえ理屈だけがわかっても、真に法律家らしい生活経験をした者でなければ、法律家として完全なものだといえない、というわけなのだと思います。
今までのところ、日本において法律とは何であるかといえば、法律家がホンの小さな小知恵の持ち主として作ったにすぎない。そうしてその小知恵にもとづいて作られた法典をさらに小知恵の力でいろいろと論議をなし、これをもって「これわが法なり」と主張され教えられるのである。そもそも法律に最も利害関係の多い人間は誰かといえば、例えば刑法についていうならば犯罪をおかした犯罪人であり、また民法についていえば、例えば金を借りたとか物を売ったとかいうようなことで権利をもったり義務を負うたりする本人たち、それが一番法律の何たるかにつき利害関係を有する人である。かかる人にとっては法が何を命じているかが明瞭であることが何より必要なのです。しかるに現在たくさんある法律書をあけて自分の心配事を相談してみると、あるいは消極説だとか積極説だとかいうものがあり、さらにまた折衷説なるものがあり、そうしてまた時には「余輩は第四説を採る」などとさらに異説をたてる先生もある。全く異説の展覧会である。ここにおいて誰が一番迷惑するかといえば、それは現に心配事をもった当人で、いろいろ先生の著書を見たり先輩学者の意見を聞くが、いろいろ説があってなんのことだか一向に判然しない。学者はわずかな小知恵をもとにしてひたすら異説をたてることのみを志し、これで結構オリジナリティーを出したような顔をしている。しかしいったい学者の本分ははたしてそんなものでしょうか。否、私はそう思わない。学者の役目は、裁判所や立法府と協力して、一方においては現在の法律はかくかくのものであるということを一般国民に示して、そのよるところを知らしめるにある。であるから、できるならば、いわゆる学説の数を減らすことをひたすら心がけてこそ立派な学者である。そうしてまた他方においては、大きな眼からみて将来法律の進みゆくべき道を示すことに努力してこそ、真に学者の本分が発揮されるわけである。いたずらに小知恵にとらわれて末節にのみ走り、積極説、消極説に次いで折衷説さらに第四説、第五説を生み出すごときに至っては、全く法律家のまさにとるべき態度を踏み違えたものといわなければなりません。
しかしながら、よくよく考えてみると、かくのごときことは、現在の日本においてひとり法律家のみの行うところではない。実際からいえば現在の世の中のすべてが、いわば小知恵の行きづまりである。第一八世紀以来漸次に自然科学が発達をとげると同時に、自然科学の力を借りれば万事がたちどころに説明がつく、したがって万事が経験と理知とで説明されうるというようなことを、世の中一般の人が軽々しく考えるようになり、ついには現在まだわずかしか発達していない自然科学をもってすでになにかよほど完全なもののように考え、これで万事きりもりしてゆけると考えるようになった。ところが実際の宇宙はもっともっと複雑な深遠なもので、とうてい今日の程度の自然科学ではいかんともしがたいのである。ところがこの種の考え方はすべての方面を支配して、かつては文学にも美術にまでも現われたのである。しかし世の中はもっと複雑です。理屈だけではとうてい説明できず、またわれわれが満足しないのです。そこで小さな理屈にのみ拘泥せずに、人生そのものの現実を直視して、真相をとらえなければならぬ。その傾向は文学、美術などの諸方面においてはすでに大きく現われていると思う。しかるに法律学においては今日なお小知恵が専制しています。それで小知恵をふるい万事を理屈どおりやってみたが、さて出来上ったものはなんとなく人間味が欠けている。これが真に生きた世の中を規律しうるとはどうしても思えない。そこで私はいいたいのです。理屈大いに可なり、しかしその理屈が小さな狭いものであれば、すでになんの役にも立たぬ。また世の中には理屈だけではどうしても解けない複雑なことがたくさんある。人間の生活関係のごときはその最もいちじるしいものの一つで、これを規律する法律および法律学にはどうしても理屈を超越した、現実そのものをありのままに観察して得られるところの幾多の非理知的分子を附加して考えなければならないと思います。これがまず今晩のお話の緒言であり、同時に解題となるわけであります。
それでこれから以下、以上の思想をもとにして、現在の法律をしてもっと人間味のある誰にもなるほどと思われるようなものにするにはどうしたらよいのか、それを説明してみたいと思います。
そこで、法律の存在が一般に諸君の眼に触れるところはどこかというと、第
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