一には、裁判所を通しておりおり法律の存在を知らしめられる。第二には、議会が開かれて、法律の出来上るのをみると、誰しもなるほど法律があるということに気がつきます。また第三には、学校へ行って法律を教えられる、なるほど法律があることをたしかに感じます。これがまず普通われわれが法律の存在を意識する最も主な場合です。それでこれからこの三点を順序にとらえて、一々これに人間味を注射する法を考えてみたいと思います。
二 人間味のある裁判はどうしたらできるか
昔の裁判にはなんとなく人間味がありました。例えば大岡越前守の講談などを聞くとつくづくそういうことを感じます。それで私はいつもその理由がどこにあるのかをいろいろと考えているのです。
そこでまず第一に考えたのは、いったい裁判官が裁判をするにあたっては事件を審理した上で結論が先に出るのだろうか、それとも法文と理屈とが先に出てその推理の結果ようやく結論が出るものだろうかという問題です。この問題は日本の裁判官はもちろん外国の裁判官にもしばしばたずねてみました。ところがこれに対する答えはほとんど常に「結論が直感的に先に出る、理屈はあとからつけるものだ」というのでした。しからばその直感的に出てくる裁判の結論なるものはいかなる心の働きから出てくるのか、私は次にこの問題を考えたのです。裁判が理屈から生まれてくるのではないとすれば何から生まれてくるのか。単なる感情とか好悪から生まれてくるのでないことだけは明らかです。それで私の考えでは、それは裁判官の全人格の力で生み出されるのだと思うのです。したがって裁判官として一番大事なものは人格の完成です。これを完成する一要素としてむろん法律の知識は必要です。しかし、それはほんの一部分です。もしも最も理想的にいえば、「なんじ人を議することなかれ」という言葉のとおり、人間には人を裁くだけの力はないのかもしれません。しかしとにかく裁判官になった以上、人を裁かないわけにはいかないから、そのみずから心がけて努むべきことは人格の完成、一分でも一厘でも神に近づかんとする努力、それが裁判官として最も大切なことだと思います。それにはそのわけを知るということもむろん必要であるが、単にそれだけではすまない。人間としてあらゆる修養を積んで本当の人間らしい人間にならなければならぬ。この人間は神さまにかたどって作られたものである。したがって本当に人間らしくなれば神さまに一番近くなったものである。それで初めて人を裁く資格ができてくるのである。かくのごとき立派な人格の持ち主によって与えられる裁判にして初めて真に勇気もありまた人間味もあり、しかも法律にもはずれないものになるのである。
それで、私は、もし大岡裁判に関する巷説のすべてが真実であるとすれば、大岡越前守はおそらくこの理想によほど近づいていた立派な人格者であったのだと思います。
ところが、今日では裁判には結論のほかに理由が必要になってきました。いかに結論がよくても理由がなければ今日の裁判として不完全なものです。それはなぜかというと、フランス革命を境として世界至るところに平等思想が生まれました。その思想は第一九世紀から二〇世紀にかけてますます発達し、初め形式的なものであったのがだんだんと実質的なものになってゆきます。この平等思想が裁判制度の上に現われたのは何かというと、それはいわゆる法治主義です。法治主義はこれを最もひらたくいえば一種の物差しのようなものです。あらかじめ法律という物差しをこしらえておいてこれを裁判官に渡す、裁判官はあたかも呉服屋の番頭さんが物差しで切地をはかるように、与えられた物差しで事件を裁きます。そうすれば最も公平に厳正に事件が裁かれる。これがすなわち法治主義の考えです。その結果、裁判官は万事物差しに拘束されて自由な働きができないことになるのですが、これというのも畢竟裁判官の専断を防ぎ不公平を防がんとする主旨から生まれたもので、それがため今日の裁判官は物差しさえもっておればほかのことは何も知らないでもいいのだなどと誤解してはいけません。呉服屋でさえ物差しだけもっておれば商売ができるというものではありません。ところが世の中には、裁判官に物差しを与えかつこれを扱う技術さえ教えてやればそれで立派な裁判官ができる、それが法治主義の理想のように考えている人も少なくないようですが、それはきわめて間違った考えです。法治主義の理想は、公平にやれ、裁判官がわがままかってな処分をやってはならぬ、というにあるのです。決して人情を無視していいとか、法の技術さえ心得ておれば法の精神や理想については何も知らなくてもよろしい、裁判官は肉挽き器械のように自動的に裁判を絞り出せばそれでよろしい、というようなものではないのです。法治国における裁判官といえども昔の大岡越前守と同じように人間として立派な人でなければいけない。人間として最も完全に近づくように心がけなければいけない。ただその昔の裁判官と違うところは、自分の全人格から自然に流れ出てきた裁判に、現行法を基礎とする理由を附し、裁判を受ける人および世の中一般の人をして自分は決して裁判官の任意な処分で裁判されたのではない、という感じをいだかせなければならないのです。そこが昔と今の違うところで、今日の裁判官のむずかしいところなのです。裁判官には法の理想に関する信念がなければならない。しかも同時に法律に束縛される。この理想の要求と公平の命令とをいかに調和すべきかが、今の裁判官にとって最もむずかしい大事な問題なのです。
それでこの調和問題については私は理想の要求に重きを置くべきであるということをいいたいのですが、このことについて一つのおもしろい話がありますから、それをお話しいたします。
それはイタリアの音楽家の話ですが、その話によると、音楽家が例えばオペラを作る、そうして役者を指導して上演させる。作者はむろん全力を尽くして自分の最もいいと信ずる楽譜を作るわけなのですが、いよいよこれを実際の舞台にかける段になってみると、役者が本式の衣裳をつけて舞台に出る。そうして見物人もいっぱいいる、立派な背景があり、オーケストラもコーラスもまた相手の役者も出て、いよいよ本式に作曲家の作ってくれたものを歌ってみると、なかなか実際上作曲家が自分の全知をふるって考えだした歌が舞台の実際に合わないことが出てくる。役者が実際の場にあたってみると、作曲家の希望や予定とは違った種々のことが出てくる。例えば、このところはこれこれの長さに歌うように、もとの譜はできていても、役者がその場合どうしてもかくかくにしか歌えないということであれば、かくかくに歌うよりほか致し方がない。しからずんば本当に自然な美が出てこないからです。また役者がここは熱情が出るという場合には、その熱情に従って譜を無視して歌ってしまう、それよりほかに仕方がない。ところがイタリアの作曲家はこの最初の上演における役者の実験を是認し、したがって最初の上演において誰々が、こういうふうに歌ったとすれば、それが元来の譜とは違っていても、どんどん歌われてゆく。そこが特にイタリアのオペラがなんともいわれぬ柔らかみをもち、人心の奥底にしみこむような力をもっているゆえんの一つなのだろうという話です。
そこで私はこの話とわれわれの商売たる法律とを思いくらべてみて、その間に大変おもしろい類似点を発見したのです。それはほかでもありません。法律はいわば作曲にあたるもの、それを裁判官が衣裳をつけ舞台に出て実際の上演をやる。そのときの裁判官は真剣です。立法者が空に考えたり、学者が抽象的に考えたりするのとは違って、眼の前には実際の利害関係をもった当事者本人がいるのです。そうしてその人間のいろいろの事情なども知っているのです。その本舞台でいよいよ本式に作曲家から渡された音譜を歌わなければならないのです。どうして譜だけを頼りにしてただそのとおりに歌いさえすればいいというようなことがありましょう。そんなことでは聴者はさらに感心しないのです。ところが今日の日本においては作曲家たる立法者にも役者たる裁判官にもこの考えが十分に呑み込めていないように思われてなりません。しかし今日の裁判官といえどもこの心得がなくてどうしましょう。裁判官は、前にも述べたように、その全人格によって判断を下す。しかし今日は法治国であるから、それになにか法律という物差しをあてなければ世の中の人が承知しない。しかのみならず物差しをあててみなを感心させるには種々な材料を使ってあるいは法律第何百何条にこう書いてあるから、おまえもしかじかこれこれと心得ろといえば聞く者もなるほどそうかと思う。またあるいは法律には明文がない、けれどもこれは多年当裁判所においてかくのごとく判決したるをもっておまえだけが特にかくかくの取扱いを受けるわけにはいかないといって聞かせれば、なるほどそうかと思う。またさらにある場合には、どうも判例もなし法律にもうまいことが書いてない。そのときには裁判所はなんというかというと、これこれの点はかくかくとならなければならないが、これはわが学界、学者の説を聞いてみても「通説おおむねかくのごとし」だから、おまえもそう思え、といって聞かせれば、これを聞く人も感心して、なるほどこんなえらい学者たちがそういっているのならば私もやむをえない、裁判に服します、というようなぐあいで判決が正当な理由あるものとして一般に取り扱われることになるのです。要するに裁判は最初議会の作ってくれた物差しを機械的に動かしただけでできるのではありません。裁判所は一方においてはまずその全人格を基礎として結論を下し、これに種々の物差しをあて、この判決は決して不公平ではない、ということを一般に呑み込ませる。そこが裁判官の役目でかつ最もむずかしいところなのです。
かくして初めて、本当の人間らしい上にも人間らしい結論が出て、ひとり議会が作ってくれた物差しのみでなく、いろいろの物差しが適当に使われて判決が下されるから、結局聴く人も感心するというわけです。
かくのごとくなってゆけば、法律が裁判所によって今少しく人間らしいものとして取り扱われるようになりうると思うのです。
次に裁判が今少しくわれわれの人間としての感じに合うようになるには、どうしたらよいかという同じ題目をも一つ違った方面から話してみたいと思います。諸君も御承知のとおり、ただいま陪審法なるものが枢密院から内閣にもどったり、内閣から枢密院にきたりして、われわれが将来支配を受けようとする法律の案が、秘密のうちに空の上を歩いております。まことに気味の悪いしだいでありますが、あの陪審法に対しては世の中に賛否の声が種々あります。ところが裁判官の大多数はあれに反対である。それは自分の信念にもとづいてなすところの判決が、客観的にみて公平であるか正当であるかは別問題として、少なくとも自分の信念において、正しくいっているものを、素人のなにもわけのわからない者が出てきて、いい加減に有罪、無罪といわれては困る。これが裁判官の反対論で、裁判官としてはまことにもっとも至極な言い分だと思います。しかし裁判官の中で陪審制度に反対する人々の多数はなによりも、もしも陪審制度を採用するときは、理屈のない裁判ができるということを恐れるようですが、そのいわゆる理屈なるものがはたしてどんなものであるかをよく審査してみた上でないと、おいそれとこの説に賛成できないのです。裁判官御自身は正しい理屈だと思っても、世の中の普通の人間が変な理屈だと思って、それを承知しなければ結局裁判としては目的にかなわないのですから、いかなる裁判が最もいい裁判かということは専門の裁判官だけでうまく判断できるものではないのです。専門家からみたら無知かもしれないが、ともかく実社会に立って働いている生地の人間を一二人もつれてきて、理屈はとにかくとして、おまえは素人としてこの事件をどう思うかと問うてみる。すると、よって得られる結果は、あるいは理屈からいうと首肯されえない
前へ
次へ
全4ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
末弘 厳太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング