ものでも、人をしてなるほどと思わせるなにものかが自然にこもっている。理屈のみを法律と思っている人は必ず陪審制度に反対するのであるが、しかし陪審制度を設ければ、理知を超越したなんともいえないおもしろみが、必ず裁判の中に出てくると思う。日本の陪審制度反対論者はただときたま出てくる悪いところばかりをとらえて、やれカイヨー夫人が無罪になったのは陪審官を買収したのだとか、アメリカのシカゴにおいては女が男を殺しても死刑にならないとか、いかにも日本人には悪く聞こえるようなところだけを伝えるのです。しかし裁判は理屈だけのものであるか、それとも理知を超越したなにものかが附け加わってできるものであるか、この点をよくよく考えてみると、陪審制度というものもそう一概に排斥すべきものではなくて、私はむしろこれが裁判を人間らしくすることのいとぐちであるように思います。

     三 人間味のある法律はどうしたらできるか

 次に、どうしたらもっと人間味のある適切な法律を作ることができるか、という問題を考えてみたいと思います。
 現在わが国において法律がいかなる手続で作られるかというと、まず司法省なりその他の役所で案を立てて議会に提出するのが普通の場合ですが、それからあと議会が何をするかというと、これは全く言語道断で、政府の案なれば御用党の力で理が非でも議会を通過します。反対の少数党中にかなり理屈のあることをいう人もあるのですが、多数党はそのいうことをきいてさえくれません。だから議会は法律の通ったりつかえたりする所で、法律を作る所ではない。法律はむしろ司法省なり内務省なり、その他お役所の役人によって作られるのだといっても、たいした間違いとはなりません。そこで、今日、法律の起草をされる方々はどんな方々かというと、それはそろいもそろって知恵者です。そうして吾輩出ずるにあらずんば天下のこと明らかならずとか、余輩出ずれば天下のこと定まるとかいうようなぐあいに、自分のもっている知恵をえらく尊信して万事がこれで解決できるというように考えている方々のように思われます。ところが私から遠慮なく申しますと、その先生がたがみずからたのむところの知恵が、たとえ、その先生がいかにえらい人であるとしても、はたしてそんなに頼りにできるほどたいしたものであるかどうかを、私は大いに疑うのです。どうせ人間一人ですから、その一つの頭の中から幾千万かの人間から成り立つ社会に立派にあてはまるような法律が容易に出てくるわけがないのです。ですから、これらの先生が法律を作られるならば、実際の事情や外国の法制などをできるだけよく調査し、人間の小知恵の足らざるところをできるだけ補ってこれを大智たらしめるだけの努力をせねばならず、またそれをするだけの謙遜な気持ちがなければならないのです。そうして事の許すかぎりは法案をまず公表してひろく江湖の批評を乞うだけの雅量がなければならないのです。ところが、例えば最近の議会に借家法案が提出されたときなども、法は最後まで秘密でわれわれ人民にはみせてくれない。私などもようやく新聞紙の六号活字でわずかにこれを知りえたにすぎませんでした。それでいよいよ議会に出た法案なるものをみたときに私は全く驚きました。遠慮なくいわせていただくと、全く穴だらけだからなのです。いったい、この借家法なるものは、今までのごとくただ個人主義的に考えて作られるべき法律ではない。問題がもっと複雑しているのです。人間はふえる、物は足りない。その調節をいかにしてゆくべきかを考える問題の一場合に相当するのです。ですから、この種の立法をするについては、従来の単純な資本主義や個人主義の頭脳だけを頼りにしたのでは、うまい法律のできるわけがないのです。それで、この同じ問題が、諸外国においても、わが国におけるよりはむしろ大仕掛けに起こり、これに対する立法も実にたくさんあるのですから、この外国の立法例だけでも十分調査し、また進んでは実際わが国における住宅難がどんなものであるか、またこれに関する法律上の争いは実際上どんなものであるかを、十分調査してかからなければならないわけです。ところが司法省のしたところをみていると、外国の法律を参考した形跡が少しもないのみならず、わが国の実情についてもほとんどなんらの調査もないのです。現在、裁判所に提起される借家に関する事件の統計があるかというとない。例えば借家人のほうから起こす訴訟の数はいったいどのくらいあるか、家主の起こす訴訟はどのくらいあるか、あるいは訴訟の金額はどのくらいか、これらの点を東京区裁判所の管轄区域内だけでもよろしいから知りたいと思ったのですが、そういうものは司法省にはないのです。いったい立法例を調査するでもなく、世の中の実情を調査するでもなく、ただ立案者がありあわせの小知恵をふるって書いたのでは、いかに立派な小知恵の持ち主にやらせてもうまくいくわけがない。そうしてその案がやがて同じく知恵一点張りの法制局あたりをまわった上議会を通過する、これではたしていい法律ができるでしょうか。私は大いに危ぶむのです。それでは真に社会の実情に適合した法律のできるわけがないのです。それから次に今の立法者――世の中でいわゆる官僚と称される方々――は非常に世論なるものをばかにしておられます。ですから法案はなるべく秘密にすればするほどいいと考えておられます。なるほど世論は理屈に合わないものです。しかし世の中のことをすべて理屈に合わせようと思えば、しゃくにさわって仕方がなくなる、できない相談だからです。しかしながら、法律は理屈だけで動くものではないと同時に、世論といえども決してばかにすべからざるものである。決して軽視することは許さざるものである。世論は理屈の代表者ではない。しかし世論にはなんともいわれない大きな価値がある。そこに人情の機微に触れた微妙な力強いところがあるのです。それを基礎にして法律を作らないで、どこに人間の気持ちに合う、本当の法律を作りうるか。法案を立てる人が、我輩はかく書いた、これより以上によいものはない、世論など衆愚のいうことがなにになるか、というような調子で、学者のこれに対する公平な批評すらきらうというに至っては、いったい国家民衆のために法律を作るのか、自己のヴァニティーのためにむりに我を押し通すのかわからなくなります。かかる結構な法律のもとで租税を納めるわれわれこそ実に迷惑千万な話であります。
 私はこの点が一日も速やかに改良されて、もっと念入りに小智をたのまずに、真に人間味のある法律が作られるようになることを希望してやまないのです。

     四 もっと人間味のある法律の教え方はないものか

 終りに、もっと人間味のある法律の教え方はないものか、それを簡単に考えてみます。このことは今日のお話の初めにも詳しく申しましたが、今日わが国で学者の学生に教えるところはただ抽象的な理屈だけである。ところが法律は理屈だけでできているのではないから、学生に本当の法律を教えるには、理屈を超越した、言葉では言い表わせない、味をも教えなければならないのです。それには現在アメリカでやっているように、判例を材料にしてこれを批判させてみるのが、一番適当な方法のように思われるのです。
 今、一つ日本の大審院判決を例にひいてお話をしますと、ある時ある所に一人の男がありました。ところが父の言葉にそむいてどこかのある女とよろしくきめこんで互いに一家をもった。父がいくら帰ってこいといっても帰ってこないから、仕方なく、父もそのまま放任しておいた。爾来数年を経たが帰ってこない。そこで父親は民法にいわゆる戸主の居所指定権なるものを行使した。ところがその男は頑として応じないので父親は憤慨して、一週間内に立ちもどるべし、しからざれば家から離籍してしまうぞ、という最後通牒を発した。それにもかかわらず、その男が期間内に帰らないのでとうとう離籍されてしまった。そこで今度は子供のほうからおやじを訴えて離籍の取消を請求した。その理由にいわく、一週間で帰ってこいというのはあまりにひどい、法律をみると「戸主は相当の期間を定め其指定したる場所に居所を転ずべき旨を催告することを得若し家族が其催告に応ぜざるときは戸主之を離籍することを得」とあって、わずか七日という期間はこれを相当と認めがたいと、こう息子のほうではいうのです。それを私たちが机の上で教えるときには、はたしてこの七日の期間が相当なりや否や、を適当に教えることは実際上不可能です。いうまでもなく、これは学者の領分外です。裁判所の領分に属すべきものです。ところで日本の大審院はこれをどう判決したかというと、七日の期間が相当なりや否やは一概には決められない。この息子がその婦人と数年このかた同居している。この同居している事実を父親は是認しているのか。それとも父親は今日といえども従来どおり、ひきつづいて反対しているのか。そのいずれかで結論が違う。親がもともと認めて同居していたのだとすれば、わずか一週間で帰れというのはむりである。これに反して、親が早く帰ってこいこいと始終いいつづけて反対していたのならば、一週間といえども決して短くないと、こう判決を下しております。私はこれをもってまことに人情にかなった結構な判決だと思いますが、かくのごとき解決は学者が机の上で考えてはとうてい出てきません。やはり裁判官が本舞台に出て実際の事実をみて初めて考えつく考えです。
 判決というものが、すべてこんなものだとは限らないのですが、とにかく実際の事実と離れない、いうにいわれぬ趣きのあるものです。ですから私はかようの判決をたくさん集めたものをもとにして、法律を教えるがいい、そうすればひとり学生みずからをして自発的に法律を発見し学ばしめることをうるのみならず、理屈ではとうてい説明のつかない法律の機微を学生に教えこむことができて、いわば一挙両得になります。ですからこれからの法学教育はこういう方向に向かってしかるべきだと私はかたく信じます。

     五 結論

 これでだいたい私のお話は終ったのですが、体裁のために簡単に結論をつけておきたいと思います。
 今まで申しましたところを要約すると、こういうことになります。理知はよろしい、理屈も知恵もよろしかろう。しかしながら小知恵ではだめだ。理知も徹底したのでなければだめだ。これに反して徹底した理知ならば必ず人間らしいものになる。いったい世の中のことは、理知で解きうる範囲は実にきわめて狭いので、少し行けばすぐ突き当るのである。しかし少なくともその理知だけでも徹底するように努力せねばならぬ。それが今の法律学者に対する私の要求の一つである。その次は理知はみずからその身のほどを知れ、理知によって進みうるところは広くはない、人間というものは理知だけで動いているものではない、あるいは信仰であるとか、あるいは悲しみであるとか、あるいは喜びであるとか、あるいは恋愛とか、あらゆる心理作用をもって、朝から晩まで動いているものであるから、それらの複雑な作用をも加えて万事を考えなければならぬ。理知のみを引き離して、それだけで法律現象を説明し規律しようなどとは全くだいそれた話である。むろん理知は一八世紀このかた自然科学の発達によって得たところのわれわれの既得権である。私はこれをすてよというのではない。かえってさらにいっそう徹底して大きな理知たらしめるように努力せよというのである。ただそれと同時に理知をもってなしうることの範囲はきわめて狭いのだということを、一般に悟ってもらいたいと私は思います。要するに理知を徹底してついには理知によって理知の上にまで出る。そうしてそこに本当に人間らしいなにものかを認めうるのである。今後は法律のできる人間も、できない人間も、また現在、学べる人間も、あるいは今後大いに学ばんとする人間も、このことをよく心がけてほしいと私は思います。そうすれば必ず法律の社会化というごときことも、この中央法律新報社の努力とあいまって、漸次に実現されるであろうとみずから信じて
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