ら反省してみると、たくさんの行為の中には、自分の理知を標準とし理知のみにもとづいてすることが多いか、それともあるいは憤慨してみたり、あるいは赫怒してみたり、あるいは美術を見、音楽を聞いて非常に感心してみたり、なにかわからず朝から晩までの間に、われわれはとうてい理知をもって律すべからざる、実にいろいろなことをするものです。ところで法律というものはわれわれが朝から晩までするいろいろなことをそれぞれ法律の型に入れて、あるいは刑罰を科してみたり、あるいは金を借りたのならば返さねばならぬというようなふうに決めるものです。いわばわれわれが朝夕なすところを法律的見地から規律するもの、それが法律です。それならば人間をただ理知の持ち主としてのみならず、あらゆる心理作用の持ち主として取り扱い、そのありのままの人間を法律の上にも踊らせ、かかる自然の人間として法律が規律し、学者が説明することにしてはどうだろうか。こう考えてきたときに、今申しましたアメリカ式の法律の教え方には、この私の希望が自然に実現されていることを私は感じたのです。先ほども申しました学生のもっている判例集には判決の事実がそのまま書いてある。そ
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