知らぬ者に対して質問する。生徒は「これこれこういうことが書いてある」と答える。すると先生はだんだんに追及して、ついには生徒みずからむりやりに正確なことをいわなければならないようにもちかける。その結果、法律を教える教場に行くと、あたかも討論会でもやっているようで、生徒と生徒とが討論する。先生がまた中に入って指導しかつ討論の相手にもなる。そうして結局法律の原則は生徒みずから自分の努力で探し出すようにさせる。何のためにこんな教え方をするかというと、例えば化学を教える際に先生が頭から「これは何とか何とかなり」とえらそうな顔をして教えるよりは、生徒自身をして実験をさせてみずから原理を会得させるほうがいい。それと全く同じ考えを法学教育に応用したものです。これが現在のアメリカ法律の教え方ですが、この方法の実際に行われるところを毎日毎日みていると、だんだんと今お話ししたような長所が目についてくるとともに、ほかにいっそう大事な長所を発見しました。それはほかでもありません。従来日本の法律学者は人というものを、ただ理屈や小知恵や理知の持ち主として取り扱います。ところがわれわれが朝から晩までなしたことをあとか
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