の許可を得ないでもいい。したがって右の契約は取り消しえないことになるのだが、あいにくと本件についてはそういう事情もないので、形式上はどうも妻の言分を採用せねばならぬようであった。ところが裁判所は「夫ガ出稼ノ為ニ、妻子ヲ故郷ニ残シテ遠ク海外ニ渡航シ、数年間妻子ニ対スル送金ヲ絶チタルガ如キ場合ニ在リテハ、其留守宅ニ相当ナル資産アリテ生活費ニ充ツルコトヲ得ルガ如キ特別ナル事状ナキ限リハ、妻ニ於テ一家ノ生活ヲ維持シ子女ノ教養ヲ全ウスルガ為メニ、其必要ナル程度ニ於テ借財ヲ為シ以テ一家ノ生計ヲ維持スルコトハ、夫ニ於テ予メ之ヲ許可シ居リタルモノト認ムベキハ条理上当然ニシテ、斯ク解シテ始テ其裁判ハ悉ク情理ヲ尽シタルモノト謂ハザル可カラズ」という理由で、妻を敗訴せしめた。この場合、妻が許可を得ていないのは事実なのです。しかし得ていないとすると、結果が悪い、貸主に気の毒だ、というわけあいで、裁判所は「許可」を擬制してしまったのです。すなわち事実許可はないのだが、表面上これありたるごとくに装い、それを飾るがために「条理上当然」とか「悉ク情理ヲ尽」すとかいうような言葉を使ったのです。この判決が出たときに、わが国自由法運動の最も熱心な代表者たる牧野博士は「之れこそ民法第十七条の例外が裁判所に依って拡張されたものだ」と解され、これと反対にわが国におけるフランス法派の大先輩たる富井博士はこれを難じて「第十七条の例外が拡張されたのではない、裁判所は事実許可があったと云って居るのだ」といわれた。われわれはこの小論争を傍観して、そこに外面に現われた文字や論理の以外に、両博士の心の動き方をみることができたように思われて非常に興味を感じたのです。「見て見ぬふりをする」フランス流の扱い方と、それを合理的に扱って進化の階梯にしようという自由法的の考え方との対照を見ることができたのです。
八
かくのごとく、歴史上「嘘」はかなりの社会的効用を呈したものであります。現在もまた同じ効用を現わしているものと考えることができます。それは人間というものが、みずからはきわめて合理的だとうぬぼれているにかかわらず、事実は案外不合理なものだということの証拠です。
しかし純合理的に考えると、「嘘」はいかぬに決まっています。あった事をないといい、なかった事をあったというのは、きわめて不都合です。ですから、一般に
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