きわめて合理的であり、したがって、一切の「虚偽」や「妥協」や「伝統」を排斥せんとする革命家は、ほとんど常に「嘘」の反対者です。法律制度として一切の擬制をその中から排斥しようとします。その例は今度のロシヤの労農革命後の法律について多くこれをみることができます。例えば、一九一八年九月一六日のロシヤ法律においては養子制度の全廃を規定しました。そうしてその理由書には「親子法においては、われらの第一法典はあらゆる擬制を排斥して、事実ありのままの状態、すなわち実際の親子関係をただちに表面に現わした。これ単に言葉によってのみならず、事実によって人民をして真実を語ることに慣れしめ、彼らを各種の迷信から解放せんがためだ」といわれているそうです。ですから、法律の中に「擬制」がたくさん使ってあることは合理的に考えてあまり喜ぶべき現象ではなく、むしろそこに法律改正の必要が指示されているものだ、と考えるのが至当です。しかし人間が案外不合理なものである以上、「擬制」の方法によって事実上法律改正の目的を達することはきわめて必要なことです。イェーリングは上記の『ローマ法の精神』の中においてこの真理を言い表わすがため、「真実の解決方法いまだ備わらざるに先立って擬制を捨てよというのは、あたかも松葉杖をついた跛行者に向かって杖を棄てよというにひとしい」といい、また「もしも世の中に擬制というものがなかったならば、後代に向かって多大の影響を及ぼしたローマ法の変遷にしても、おそらくはもっとはるか後に至って実現されたものが少なくないであろう」といっております。
しかし、「擬制」が完全な改正方法でないことはイェーリングも認めているとおりです。「擬制」の発生はむしろ法律改正の必要を、否、法はすでに事実上改正されたのだという事実を暗示するものとして、これを進歩の階梯に使いたいのです。ことに嘘つきには元来法則がありません。ですから、裁判所がこの方法によって世間の変化と法律との調和を計ろうとするに際して、もしも「嘘」のみがその唯一の武器であるとすれば、裁判所が真に信頼すべき立派な理想をもったものである場合のほか、世の中の人間はとうてい安心していることができません。かりにまた真に信頼すべき立派な理想の持ち主であるとしても、これのみに信頼して安心せよというのは、名君に信頼して専制政治を許容せよというにひとしい考えです。フラ
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