おばあさん
ささきふさ

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)楊梅《やまもも》の

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(例)見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]して
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       一

「おばあさんがいよいよ來るんですとさ。」
 私はひとごとのやうに云つて、彼の顏色をチラと窺つた。
「來られるのかね。」
「來るときめてゐるらしいわ。」
 私達夫婦は何事につけてもあまり多くを語らない。大きな卓の向うで、彼は僅かな言葉を洩らす間も、たいてい何かを讀んでゐる。私は傳へなければならない僅かをやうやうの思ひで云つてしまふと、いつもの癖で、目を硝子戸の外に向けた。つい先達て汗だくになつて刈込をした楊梅《やまもも》の枝枝には、茜とも鳶ともつかぬ色のつややかな葉が、可愛らしくもう出揃つてゐる。空には淡い白雲が、動くとも見えない。がその切れめには更に淡い、紗を振つたやうな一群が、押されるやうななだらかさで流れ過ぎて行く。上層にはごく僅かな動きがあるらしい。音なき音樂だなと私は思つた。と同時に自分自身の心中には、それとは凡そうらはらな雜音がもの凄く錯綜してゐるのを意識した。
 ――おばあさん、伊東へ來るといいな。
 そもそもさう云ひ出したのは彼の方だつた。
 ――こんなお魚があるのに。
 ――うちに温泉が出てゐるのに。
 さう云ふ彼の顏色を私はチラと窺ふばかりだつた。これは彼の歌かも知れない。のみならず自分自身の母を呼ぶことは、よほど考へなければならない。彼の母も私達の家へ來たがつた。そしていよいよ迎への車が着いた時には既にこと切れてゐた。私は彼の母をろくに見なかつたことで、よく心苦しい思ひを味ひ返す。おばあさんが話題になる場合はわけても心苦しくなつてくる。だから私はおばあさんに、彼がかう云つてゐます、ああ云つてゐましたと傳へただけで、是非いらつしやいと自分の言葉で勸めたことは一度もなかつた。そのうち空襲が激しくなつてきた。多摩川に近い郊外は安全とはいへない。
「老人疎開といふこともあるのだから。」
 まともに彼にさう云はれて初めて私は、自分自身の誠意も籠めて、ともかく危險の去るまで安全率の高い伊東へお越しになつたらと書いて送つた。だがその時のおばあさんには良郎といふものがあつた。風來坊の此次男はお酒と、それから四十過ぎて貰つてぢき別れた細君のことで、おばあさんにずゐぶん苦勞をかけたものだつた。がお酒のどうにもならなくなつてからは、俄然孝養到らざるなしになつてしまつた。おそらくひとり身の彼にとつては古陶のやうなおばあさんが凡ての寄りどころとなつたのであらう。茉莉花や菊をつくるのの巧かつた彼は、食糧事情が窮迫して來るにつれ、そら豆とか莢豌豆とか菠薐草とか、さういつたおばあさんの口に合ふものの方へ轉向して行つた。本業はロシア語で、アルツィバーシェフやゴリキーの飜譯もあるのだが、書架にはだんだんバーバンクとかミチューリンとかがのさばり出した。おばあさんの隱居所は長男の邸内の片隅に在るのだが、本家で百姓につくらす野菜は枯れがれなのに、隱居所の縁先はいつも青あをと、心丈夫な眺めだつた。おばあさんはかう考へたのに違ひない。良郎は自分の爲にあれほど氣を入れて畑をつくつてゐる。それを見棄てて伊東へ行くのは可哀想だ。のみならず本家の嫁は伊東から招きがあつたと洩らした時、ああ行らつしやいまし、あとは貸して、おばあさまにお小遣を送つて差上げますと云つた。すると自分が動けば良郎は住ふところを失ふわけになる。そんな想ひの果だらう、おばあさんは、やはり此處にゐるといふ返事を寄こした。
 だがその良郎は空襲の怖れもなくなつた年の暮、不意に死んでしまつた。縁先の菠薐草は雪の中でも不思議なほど青あをと旺んだつたが、たうとうそれもおしまひになる頃には圓の切りかへといふことが來た。慣れた女中がついてゐるとはいへ、九十三歳の頭で此難局に處して行くことは不可能といつてよかつた。といつておばあさんは長年のしきたりで、つい目の先にゐる長男夫妻には一切ものを頼まない。頼まない限り夫妻の方も知らぬ顏で押し通す。そのうち慣れた女中にぼつぼつ縁談がかかつてきた。それでも本家の世話になるのはいやなのださうだつた。
 ――私もこれからは三度に一度はパンを食べます。だんだんパンを二度にします。そのうちには三度共パンにしてもいい覺悟で居ります。おすがり申すのは天にも地にもお前樣よりほかないのですから、どうぞお見棄て下さいますな。
 古風ながら九十三歳にしてはしつかりし過ぎたペン書きで、おばあさんはそんな手紙を寄こすやうになつた。侘しくなるとおばあさんは、もう伊東から來てくれる頃だといふことにしてしまふ。それから、明日は來る筈だといふことに一人できめてしまふ。一日待ち、二日待ち呆けるうちだんだん氣力が衰へてくる。夏の初めにはそんなことからたうとう病氣になつてしまつた。早く癒つて伊東へ行きませうねと私はおばあさんを慰めた。が病後のおばあさんに三時間餘の汽車旅行が出來やうとは思へなかつた。ところが九十三歳のねばりは案外強い。おばあさんは不思議と早く癒つて、もう足ならしの散歩を始めたと報告してきた。それから間もなく、殘暑もだいぶしのぎよくなつたから、かねての望み通り伊東へ伺ひたいが、御都合はいつがいいかと切り込んできたのである。――
「來るのなら天氣の崩れないうちの方がいいな。」
 彼はちよつと硝子戸の日ざしに目をやり、それからごちやごちや物の置いてある二間《ふたま》續きを見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]して、
「おばあさんはきつと、オヤオヤ大變なお道具ですねつて云ふよ。」とおばあさんの聲色になつて笑つた。笑ひながら立つてトントン二階へ上つて行つた。さつきから硝子戸と反對の北側では、ワアワア、ホームホームと昂奮した喚きが斷續してゐる。二階の窓からまともに見下せる運動場で、スポンヂ野球が始まつてゐるのだ。東京で頭のひどく忙しい彼は休日に草野球を見ることで轉換を計つてゐるらしい。彼が二階に落着いたのを知ると私は大きな卓に書簡箋を擴げ、本家の快諾を得られたら、次の日曜の早朝立つことにして、自分は前夜からお迎へに上る旨の返事を認めた。それから、長いこと女中のゐない女中部屋に行き、部屋の半ばを占領してゐる食料品の整理にかかつた。

       二

 遺骨と喪服とで身動きもならぬ小田急だつたが、氣の毒な一團の去つたあとは急にがらあきになつてしまつた。ほつとして腰を下すと、硝子のない窓から吹き入る風が後れ毛を眼の上へ叩きつける。それを拂ふ拍子に私はふと、出入口の方から私の靴を見てゐる進駐兵のあるのに氣付いた。此服には此靴しかないと思つて穿いた紺の變り型なのだが、汚い下駄の並んだ間では目に立つ代物だつたかも知れない。私は氣付かぬ振りで別の方に目を向けた。GIがもう一人車内を睨めながら釣革でぶらんこをしてゐる。彼はふと吊る下つたまま頭を低くして窓外の雲を覗き、天候に就いて何かつぶやいた。さつきから私も雲行の不穩なのを氣にしてゐたところだつた。明日の午前中だけでも、もつてくれればいい。おばあさんは何しろ米壽の時以來電車などには乘つたこともないのだから、何處まで乘りこたへられるか判つたものではない。何事につけても降られたのでは困る。――
 雲の切れ目がすうつと開《ひら》けたと思つたら、電車はもう多摩川の上だつた。私は網棚の風呂敷包を下し、手提を左の脇に挾んで、バランスを取りとり出入口の方へ歩いて行つた。まだ釣革でぶらんこをしてゐるGIは私の近づくのを見ると、不意に手と體躯とでアーチをつくつてくれた。
「オー・サンクス」と反射的に口の中が動いただけだつたが、するとさつき靴を見てゐたもう一人は、不意に又頭の上で、
「東京まで行くのかと思つてたのに。」と云つた。東京とは新宿の意なのであらう。
「どうして?」
「その如くに見えた。」
「でも、東京の家は失つてしまつた。」
「オー、でこのあたりに住んでゐるのか。」
「さうぢやない、母を訪ねるのだ。」
「オアウ!」
 彼の青い目は急に故國の母の方に向けられたやうだつた。きつとまだ若い母親であらう。私は、訪ねる母が九十三歳だといふことが彼に考へられるかしらと思つた。それからふと彼國の大統領の母堂が、たしかおばあさんと同年で、飛行機でワシントン入りをしたといふ記事を思ひ起した。ことによるとおばあさんも案外平氣で、おばあさんにとつては長途の旅を乘り切ることが出來るかも知れない。
 目の前の扉が開いたので私は稍浩然と、振り向きもせず歩廊に降り立ち、そのまますたすたと階段の方へ歩いて行つた。

       三

 うつむいて又想ひに陷ちながら日暮の並木路に出ると、
「奧樣奧樣」とがさつな女中の聲がして、意外な近さににこにこ顏が現はれた。「御隱居樣はさつきからお待ちかねでございますよ。わたくしちよつと登録にまゐつてまゐりますから、――すぐ戻ります。」
 私は前日おばあさんから屆けて寄こした手紙に、女中と行くから迎へに來るには及ばないとあつたのを思ひ起し、さう書きながら待ちかねてゐるところはやつぱりおばあさんだなと思つた。
 玄關を開けて、
「お待遠さま。」と快活な聲を送ると、坐つたままのやうな姿勢でよちよちと現はれたおばあさんは、――何といふ目の輝きだ。私は胸を打たれる氣がした。おばあさんはそれほどまで此日を待つてゐたのだ。それほどまでおばあさんは侘しかつたのだ。
「まあまあよく來てくれましたね。」
「おばあさん大丈夫ですか。」
「ええ、ええ。何處といつてどうもないんですよ。自分でも不思議なくらゐ。」
「御本家では何と仰しやつて?」
「私が行くと云ふものを、何が云へるものですか。二三日温泉に入つてくると云つたら、あわててね、せつかくいらつしやるのだつたらゆつくりなすつた方がと云ふんですよ。」
「それはさうですよ。二三日ぢや疲れに行くやうなものぢやありませんか。」
「さうですかね。向うぢやとてもよろこんでるんですよ。目の上の瘤がなくなると思つてね。」
 おばあさんは九十三になつてもまだ口の毒を失つてゐない。私は包を引寄せて、
「これはあしたの朝あがるお魚、これはお辨當の甘いパン、これは疲れた時に召し上る葡萄糖、これは熱いお茶を入れて行く魔法壜、それからこれは、おさつ――」
「オヤオヤもうおさつが出ましたか。まあまあ、これだけ揃へるのは大變だつたでせうね。」
 おばあさんは冴えざえとした目にもう一度輝きを加へ、明日の遠足で心もそぞろの如くだつた。
「いつもはもうお休みの頃ぢやないの?」
「ええ、でも、――」
「今夜はいつもよりよけい休んどいていただかないと、――」
「なに大丈夫ですよ。お午にはうなぎも食べたし。」
「よくお手に入つてね。」
「美耶川さんが持つてきて下すつたんですよ。伊東へ行くのならしばらく會へないからといつて。」
「何て御親切なんでせう。」
「さうさう、お風呂が沸いてるんですよ。あなたお入んなすつたら?」
「おばあさんこそ早く入つてお休みなさい。私は御本家に伺つて來なくちや。」
「さうですね。來ると云つてあるから、待つてるかも知れませんね。」
 私は又「來るに及ばぬ」を思ひ起し、苦笑せざるを得なかつた。
 本家では夫妻も子供達も何かいそいそと私を迎へ入れてくれた。私は平素の無沙汰を詫び、接收の惧れの去つたらしい悦びを述べると、本家は財産税に就いての長い愚痴になつた。
「今度はおばあさんが御厄介になりに伺ふさうで、どうも、――」
「いえ。でもおばあさまは何と仰しやつてらつしやいましたか。」
「昨日見えてね、痒いところがあるから二三日温泉に入つてくる。そりやいい。しかしどうして行らつしやると訊いたら、伊東から迎へに來る。――でも明日は日曜で混みやしませんか。」
「通勤者はないわけでせう。私は又おばあさまがお出かけになると云つたら、
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