だなと私は思つた。と同時に自分自身の心中には、それとは凡そうらはらな雜音がもの凄く錯綜してゐるのを意識した。
 ――おばあさん、伊東へ來るといいな。
 そもそもさう云ひ出したのは彼の方だつた。
 ――こんなお魚があるのに。
 ――うちに温泉が出てゐるのに。
 さう云ふ彼の顏色を私はチラと窺ふばかりだつた。これは彼の歌かも知れない。のみならず自分自身の母を呼ぶことは、よほど考へなければならない。彼の母も私達の家へ來たがつた。そしていよいよ迎への車が着いた時には既にこと切れてゐた。私は彼の母をろくに見なかつたことで、よく心苦しい思ひを味ひ返す。おばあさんが話題になる場合はわけても心苦しくなつてくる。だから私はおばあさんに、彼がかう云つてゐます、ああ云つてゐましたと傳へただけで、是非いらつしやいと自分の言葉で勸めたことは一度もなかつた。そのうち空襲が激しくなつてきた。多摩川に近い郊外は安全とはいへない。
「老人疎開といふこともあるのだから。」
 まともに彼にさう云はれて初めて私は、自分自身の誠意も籠めて、ともかく危險の去るまで安全率の高い伊東へお越しになつたらと書いて送つた。だがその時のおば
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