、――半ぐらゐでせう。」
「九時半で、もうお午か。」
「知らなかつたの? 朝六時、午十時、晩四時、――」
「へえ。自然に挑戰してるやうなのが長生の祕訣かな。」
おばあさんには彼の野球好きが染つたのか、ともするとそろりそろり梯子を登つて行く。此年になつて初めて見る野球は解らないけど面白いのださうだつた。
「おばあさん、三味線が始まりましたよ。」
彼が知らせると、
「オヤオヤ、朝から勿體ないですね。」
おばあさんは立ちぎはにちよつと衣紋を直して、いそいそとラジオのある應接間に出かけて行く。
「ああ面白うございました。今のは常盤津の角べえで、私の娘の頃初めて出來たのを、芝翫と誰かとで踊つたんですよ。私も夢中になつてお稽古したものでした。」
つい最近までのおばあさんはともすると遠慮が過ぎ、「來るに及ばぬ」に類した表現で慣れぬものはまごつかさせられたものだつたが、伊東に落着いてからはひどく素直にものよろこびをするやうになつてきた。生きた伊勢海老とか、一本のわらさとか、山ほどの早生蜜柑とかを見ると、おばあさんは、
「冥土の土産」とうれしさのあまりそわそわしてくる。そしてそれらを嬉々と食べ、嬉々と温泉にひたつて、明るいうちに眠つてしまふ。
「かう、かうして頬ぺたを撫でてみると、皺が觸らなくなりましたよ。ちよつとの間に肥つたんですね。」
おばあさんはつるつるした象牙色の頬を何遍も撫で※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]してみる。
「さう仰しやられればお顏つきも隱居所にいらしつた時より生きいきしてきたやうですよ。」
「さうでせう。ほんたうにいい氣になつて。」
「結構ぢやありませんか。伊東にいらしつてお痩せになつたんぢや、私としても御本家に合せる顏がありませんわ。さうしてお元氣にしてゐて下さるのが子孝行といふものですよ。」
「何とお禮を申しあげていいのか、ほんたうに私は幸せものだと思ひますよ。ちひさい時に、此子はいい耳をしてゐるからきつと幸せになるとよく云はれたものでしたが。」
「さういふお氣の持ちやうがお幸せといへばいへるのでせうね。上には上で、人間の慾にはきりのないものですから。」
「だつて此上のことはないでせう。かうして朝晩好きな温泉に入つて、おいしいものばかりいただいて。もういつ目を眠つても思ひ殘すことはありません。」
おばあさんは外交辭令を竝べてゐるのでもなささうだつた。
一月の間に女中はおばあさんの身の※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]りの物を運び終ると、いよいよの縁談で暇をとつて行つた。おばあさんの留守宅には本家の長男夫婦が安心してもう住みついてゐるらしい。私自身もおばあさんとの日常に慣れて、着るもののことになど氣を配り出した。おばあさんは死んだ兄の唐棧の半纏を袷に直して、ぼろだからと前掛をかけてゐる。
「だんだんお寒くなるけど、此次には何をお召しになるの?」
「なにといつて、これのほかには、よそいきが一枚あるだけなのですよ。」
「でもこれは良ちやんが死んでから出來たお召物でせう。その前には何を召してらしつたの?」
「それが、――なにか着てゐたのには違ひないんでせうけど、何を着てゐたのかさつぱり憶えちやゐないんですよ。」
「たしか八丈を召してらしつたのを見たことがあると思ふんですが。」
「さうですかしら。でもそんなもの、影も形もありやしません。」
私は急に暗然としてきた心中を隱しきれない氣がした。その時どきの應酬はどうかすると吃驚させられるほどテキパキしてゐるのだが、どうかすると又、あれと云ひたくなるほどよく知つてゐる筈のことを忘れてゐる。私には影も形もなくなつたものが着物だけとは思へなかつた。何といふ哀れなおばあさんになつてしまつたのだらうと私は涙ぐんだ。
「よそいきは躾のまま生遺物《いきがたみ》だといつておくばりになつたやうでしたけど、不斷着が一つもないといふのはをかしいですね。ともかくそいぢや、うちのぼろを出してみることにしませう。」
私は早速二階に上つて、彼の腰の拔けた八丈や、何年にも着たことのない羊羹羽織を出してきた。おばあさんは、こんな立派なものをと、又そわそわし出した。急いで仕立に出さなければと私が云ふと、お正月におろすのだからゆつくりでいいと、夢見るやうな目をした。
七
その晩も彼はおばあさんの寢たあとへ歸つてきた。
「これ、社に來てゐたよ。」
ポケットから出したのは私宛の電報だつた。良郎氏の住所を教へてくれ、ゴリキー全集に彼の「母」を入れたいといふ長い假名書だつた。私は目を大きくして唐紙越しにおばあさんの寢てゐる方を見た。出版社では良郎のとうに死んだことさへ知らないくらゐだから、おばあさんの此處にゐることなど判る筈はない。使ひ果して裸にまでなつた
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