おばあさんに、萬といふお金が入ると云つたら、おばあさんはクロのやうにゲーゲーとでも云ひ出しはしないだらうか。私はもう一度死ぬ一週間前に此處を訪ねた兄の生氣に乏しかつた面持を思ひ浮べ、良ちやんも生きてゐたら好きなお酒を飮めるのにと、胸を締めつけられるやうな悲しさだつた。ことによると出版社が同姓の本家を無視して彼の社に私宛の電報を打つたのは、亡兄の靈の導きによるのかも知れない。――夢心地の數瞬が過ぎると、私は打電の主に、亡兄と老母の爲ならいかなる勞もいとはない旨の返事を認めた。
「おばあさん、吃驚しちやいけませんよ。」
 さう前置して私はおばあさんに「母」上梓のニュースを解り易いやうに傳へた。がおばあさんは九十三年の鍛錬のかひあつてか、さして目の色を變へもしなかつた。
「一周忌の間に合ひますかしら。」
「このせつのことだから、豫定通りには行くかどうか判りませんが。」
「それまではどうしても生きてゐなくちや。」
「その調子なら、ほほ、百まで大丈夫ですよ。でもどうして? 良ちやんにお酒でもお供へになりたいの?」
「それもさうですね。ですけど私はそれはそつくりこちらへお禮に差し上げたいのです。」
「何を仰しやるの。そんなのいやですよ。うちは御本家と違つて財産税の苦勞といつたやうなもののあるわけぢやありませんけど、それでゐて別に何不自由なく、のんきに暮して行けるんですもの、慾得づくでお世話してるとでも思はれちや、をさまりませんからね。」
「誰がそんなことを思ふものですか。でも私にはほかに御恩の返しやうがない。朝晩好きな温泉であつたまつて、おいしいものばかりいただいて、何の屈託もなく、――東京にゐた時はほんたうに毎日毎日――」
 おばあさんは初めての愚痴で、整つた顏を歪《ゆが》め、ワッといふ聲こそ立てなかつたが、制御を失つた泣き方になつてしまつた。
「そんなお泣きになつては、幸せでも何でもなくなつてしまふぢやありませんか。」
「いいえ、うれし泣きです。」
 おばあさんはいつも卓の下に置いてある手拭で涙を拭きふき、苦しさうに笑つて見せた。
そして又不意に冴えざえとした目に戻つて、いたづらさうに云つた。
「いいですよ。私はちやんと遺言に書いておくから。」



底本:「ささきふさ作品集」中央公論社
   1956(昭和31)年9月15日発行
初出:「苦樂」発行所名
   1947(昭和22)年1月号
入力:小林 徹
校正:林 幸雄
2008年7月20日作成
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