充ちた聲を放つと、顏から先に彼は唐紙の蔭から現れた。
「やあよくいらつしやいました。豫定通りにいつたわけだね。さあ早くお上んなさい。」
彼は今朝までの間《あひだ》に二間續きの模樣を變へ、次の間の窓際に經机を置いて、おばあさんの席をつくつておいてくれたのだ。おばあさんは初めて通る家の樣《さま》に、ちよつとの間きよとんとしてゐたが、席に坐ると稍自分を取り戻したらしく、
「とんだ御厄介ものが上りまして。」と丁寧に白い頭を下げた。
「やあ、御覽の通りの侘住居でどうも。」
「どう致しまして、大變お立派な。まあまあ大變なお道具でございますね。」
私達は顏を見合せて笑つた。
「どうぞおくつろぎなすつて。」
「一週間ばかり温泉に入れていただきます。」
「さう仰しやらないで、御ゆつくりなすつたらいいでせう。少くとも寒い間は。」
おばあさんは彼の打診を終つてほつとしたらしかつた。
女中がしこたまつくつてきたお握りを皆で食べ終ると、私はおばあさんを無理に寢かしつけ、寢不足の女中も女中部屋で休ませた。彼は又二階へ野球を見に行くといふ。では表を締めて出るからと、私は本家へ安着のウナを打つべく臺所口に靴を※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]した。石段の下に寢そべつてゐたクロは氣配に勘付くと、むくむくした胴體を破れた毬のやうに彈ませ、とたんにゲーゲーといつもの咳になつてしまつた。もう十四年も私達と生活を共にしてゐる彼は、そのうちの十年間胸にフィラリアを飼つてゐるわけなのである。目が醒めればゲーゲー云ふ。うれしいことがあつてもゲーゲーが始まる。何か食べたいとか、玄關に入れてくれとか、夜中に用を足しに出たいとか、さういつた要求の表現もゲーゲーなのである。ごく稀にワンと聞えると、
――あら、クロがワンて云つてるわ。
――なまいきに。
私達は目を見張つて、そして笑ひ出すのである。前日からの何かを賭してゐるやうな心勞で私は相當まゐつてゐたが、クロと歩くことで、――一晩寂しい思ひをさせたあと一緒に歩いてやることで、私はいくらか立ち直るのを覺えた。行人はゲーゲーに吃驚して振り返る。ゲーゲー犬が聾なのを知つてゐる惡童は不意に横から石を投げつけたりする。これはおばあさんと同樣守つて行かなければならない存在なのである。
ゲーゲー云ひながら、そのわりには元氣よく先行するクロを私は久しぶりにしみじみと見て、犬としたらクロはおばあさんより上かな下かなと訝つた。若い間は芝犬の標準に近い形の、喧嘩にひどく強い犬で、そればかりでなく鷄を殺したとか、兎の檻を壞して盜み出したとか、武勇傳も決して少くない方だつたのだが、今は耳も折れ、尻尾も垂らしがちで、やつと歩く子供達にまで無害な生物と信じ込まれてゐる。頭にはだいぶ白いものが混つてきたし、昔はピンとしてゐた脊骨も今はおばあさんのとは反對に、土の方向へ反《そ》つてきた。人間の背中の曲るのは頭骸の重量に堪へなくなる爲だと聞いたことがあつたが、クロの脊骨は内臟の重みを支へきれなくなつてきたのかも知れない。私は子のない代りに老犬と老女の面倒も見ようといふ自分自身に苦笑せざるを得なかつた。
歸途は學校の運動場を拔けて、そこから二階の彼に何か合圖をしてみるつもりだつた。が、ちやうど自家の二階と向き合つてゐる横門の間に立つと、遙かな窓に低く現はれてゐるのは、彼ではなく、おばあさんの白い頭だつた。
六
一月經つた。おばあさんは彼のつくつてくれた一隅にすつかり腰を落ちつけ、紙を揉んだり、絲を捲いたり、今しまつたものの在所を忘れて探しものをしたり、一坪弱位のところで行儀よく生活してゐる。私は經机のあつた窓際に箪笥を半分だけおばあさん用として出し、その上に亡兄の寫眞を飾つた。すると彼は木肌が白じろしてゐると云つて、スマトラの布をかけてくれた。彼とおばあさんとは不思議にうまが合ふらしい。老年の域に入りかけてゐる彼は、九十三歳といふものに一つの興味を感じてゐるのも事實だ。
「まだまる四十年も生きなくちやならないんだよ、君。」と彼は訪ねてきた社の人に云つた。「君はあと五十年か、ハハ。それも大人になつてからの五十年だぜ。」
客は困つたといふやうな表情になつて、
「お耳も遠くないやうですね。」
「ええ。目も針の針孔《めど》が通らないくらゐのことで、新聞ぐらゐは讀めるんですよ。」
朝はよく彼が自分で珈琲を淹れる。その都度おばあさんの分と稱して小型の茶碗も用意する。或朝珈琲を飮み終つた私が、
「そろそろおばあさんのお粥をかけてこなくちや。」と臺所に立つと、彼はぢき追ひかけてきて、
「なんぼなんでも早すぎやしないかい?」とおばあさんのうれしい時の目の染《うつ》つたやうな表情で云つた。「時計を見違へたんぢやないのか?」
「九時
前へ
次へ
全8ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
ささき ふさ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング