んだんに見えてきた。本家の世話になつたことのある人ででもあらう。
「温泉に入りたいといふのでね。ハハ。」
本家はちよつとうつろな笑聲を立てた。紳士は本家が何か云ふ毎に、うやうやしい目禮をおばあさんの方に送つてゐる。かうした場面を見ると私は、おばあさんが知らぬ土地に行つて寂しい思ひをしなければいいがといつた氣持になつた。
小田急の一番にはもう坐るところもなかつた。女中に手を曳かれて乘りこんだおばあさんは、まだ發車前なのに乘つた餘勢でよろよろと車臺の中央まで行つてしまつた。やつと其處で立ち止ると、目の前にかけてゐた人の好ささうな國防色が、すぐ立つておばあさんをかけさせてくれた。するうち、
「お氣をつけ遊ばして。」
張り擧げた本家夫人の聲はまだ殘つてゐるやうなのに、電車は容赦なく夫妻を置き去りにしてしまつた。私は席をゆづつてくれた好人物に一應の禮を盡すと、
「おばあさん大丈夫ですか。」とおばあさんの上に跼みかかつた。
「何ともありませんよ。」
おばあさんは幾年ぶりかの電車もうれしさうな面持である。
「上にお坐りになつたら?」
「この方が樂です。」
「風が入りすぎはしませんか。」
「ちやうどこれで、愉快です。」
私は愉快ですに思はず聲を立てて笑つた。絹のワンピースで私は稍汗ばんでゐるのに、おばあさんはセルに紋附の一重羽織で涼しい顏をしてゐる。
「窓の外は見ないやうにね。お目がくらくらするといけませんから。」
おばあさんはにこにこしたまま、素直に車内の乘客に目を向け變へた。だが、だいぶすいてきた車内の男女は、おばあさんに見られぬ前《さき》から、ともすると視線をおばあさんに集めがちだつた。九十三とは知るまいが、ともかく大變な高齡者が小綺麗に、きちんとかけて、うれしさうな顏をしてゐるからであらう。
「今日はおばあさんも御滿足でせう、あんなにしてお二人に見送られて。」
「いくらか氣が咎めてるんですよ。昨日は珍しく、お小遣はあるのかと訊きました。」
「で、なんて仰しやつたの?」
「まだ間に合ふからいいと云つてやりました。」
おばあさんはそれで勝つたといふつもりらしかつた。私はちよつと苦《にが》い笑ひになつた。おばあさんの貯金帳には次兄の遺物《ゐぶつ》を賣り拂つたお金が、三百圓そこそこしか殘つてゐない筈だつた。思へば彼の急死以來よくも今日まで女中を使つて暮してきたものである。おばあさんの頭の中は日日の營みの爲一時として安らかではなかつたのに違ひない。その疲れとこの行き詰りとが伊東行の望みに拍車をかけることになつたのであらう。
小田原と熱海の乘換では、女中がおんぶする豫定で、その爲何一つ持たせず出てきたのだつたが、おばあさんは終點に降り立つと、歩くと云つて杖を持つ手に震へるほどの力を入れた。登りの階段さへ殆んど一氣だつた。私は幾年もの間狹い隱居所の中をよちよちしてゐるおばあさんしか見たことがなかつたので、何處に祕めてゐたのか此異常なエネルギーには目を見張らざるを得なかつた。
休日の汽車は案じたほどにも混んでゐなかつた。熱海では待つてゐる目の前に貨車の廣い戸口が停つた。
「これに乘つちやひませう。此處に坐つて行つた方が却つて樂かも知れませんよ。」
私はさつさと先に上り、小脇の座蒲團を凸凹のない通路の中央に敷いた。
「さうとも。」
不意に背後で景氣のよい男の聲がした。
「此處に乘るのは利口者だよ。特別席なんだから。」
見ると赧ら顏が三人、各自に一升壜を立て鼎坐してゐるのだつた。
「おばあさんはいくつかね。」
「いくつに見えます?」
「八十、――さあ。」
「九十三なのですよ。」
「九十三? そいつあ國寶ものだ。へえ、九十三! 人間はうまいものを食つて長生するに限る。」
「とんだ食ひつぶしもので。」
おばあさんは横からひよいと口を出した。
「そんなこたねえ。しかしおばあさんはうまいものを食つてるね。あつしや食物商賣だから、入つてくる人の顏を見りや、およそどんなものを食つてるか、ちやあんと判る。こいつを一つ食べて下せえ。砂糖入りの乾パンだ。」
堅さうだつたが受取つて渡すと、おばあさんは端の方をちよつぴり折つて早速口に入れた。それをふくんでおばあさんはおちよぼ口を目立たぬほどに動かしてゐる。海から來る光線を受けてその唇は赤兒のそれのやうに美しかつた。かうまで年をとると食物も幼兒のと似たものになるから、肉體の組織も赤兒に還つて行くのかも知れない。さういへば私は、母といふよりは子を伴れて汽車に乘つてゐるやうな氣持でもある。おばあさんは幼兒の如く無心にそして安全に、隧道一つ越せば二驛めがたうとうもう伊東なのである。私は數日來の肩の凝りが少しづつ解けて行くのを意識した。
五
扉を引きながら
「ただいま。」と我ながら歡喜に
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