すのは、しのびがたいことのやうに思はれた。彼は死ぬ一週間前、おばあさんの使ひも兼ねて伊東まで來た。二泊してくつろぐ間に、おばあさんとの生活の將來に就いて、しんみり相談をかけたりもした。私はその時の兄の何か生氣に乏しかつた面持を思ひ浮べ、少年少女の昔から何でも話し合つた仲なのにと、その人のもう亡いことがひどく悲しくなつてきた。書架の前にはおばあさんの明日着るものがきちんと重ねてある。が其處らに漂ふ書物の匂ひは兄の體臭に近かつた。私は身内に何かの滲み入るのを意識しながら、一度すつかり目を通した筈の本の背を、お名殘の心で上から順に見て行つた。數段を占めてゐる露語の大册は、とても讀めたものではない。ただモスクワからやつとの思ひで取り寄せて、しばらくは抱いて歩いてゐたミチューリンだけは直ぐそれと判つた。せめてこれだけは伊東まで、――おばあさんと私の傍へ伴れて行つてやらう。私は豪華なその一册を自分自身の胸に抱き、疊の上に寢そべるやうにして、古ぼけた洋書のつまつてゐる最下段を窺《のぞ》いた。センツベリーとか、ゴルスウァージーとか、ソーローとか、私が學生時代に讀み、外遊の際兄にあづけたものが、ひどくくすんで飛びとびに挾まれてある。それらは私から離れて二十餘年、兄の生活につきまとつてきたわけである。私はその數册を拔き出して伊東へ持つて行くことにした。

       四

 五時半に仕度を終へ、臺所口から本家へ挨拶に行かうとすると、もう下駄をつつかけた本家が、送るから早く出かけろと、手と顎とでヴェランダの上から云つた。私は一度引込んで納戸から玄關へ拔け、おばあさんのしやちこばつた足に草履を穿かせた。女中はざつとお勝手を片付けて、あとから驛に走るとのことだつた。おばあさんのよちよちに調子を合せておばあさんの表札のかかつてゐる隱居所の門を出ると、早朝の並木路に本家夫妻はもうおばあさんを待つてゐた。二人はおばあさんを私の手から奪ひ、雙方から抱へるやうにして歩き出した。
 雲は低いが、立木とすれすれの東の空には一刷けのオレンヂ色が光つてゐる。風といふほどの風もない。どうやら私の望み通り、今日一杯はもつてくれさうな模樣である。次兄の靈もきつと途次を守つてくれるだらう。私は出がけに一枚掴んできた小型の座蒲團を手堤と一緒に小脇に抱へ、片手にはお辨當の包を提げて三人六脚のあとに從つた。外に出てみると、うそのやうに小さいおばあさんだつた。おばあさんの背中は直角に近いほどに曲つてゐる。曲つた背の上に眞白なオールバックがぴかぴかと光つてゐる。記憶に殘るおばあさんの母親も美しい顏立だつたが、おばあさんは九十三だといふのに、いまだに冴えた目と正しい鼻とを保持してゐる。此系統は私達の代になつて、それぞれに崩れてしまつたのだ。私は綺麗なおばあさんを伴れて行くことが誇らしくもあつた。
 驛の階段を登るおばあさんの足取は驚くべき速さだつた。左右から抱へ上げるやうにしてもらつてゐるのだが、おばあさん自身の一生懸命さで足は先走りして見えるくらゐだ。大柄な本家主人はまだしやつきりしてゐる。が本家の背中はおばあさんの輪郭をそのまま擴げたやうである。私はよく似てゐながら少しも相容れぬおばあさんと本家とが今日だけ、――永の別れになるかも知れない今だけ手を取り合つてゐるのを見て、いつたい何が原因でかうまで意地を張り合ふ仲になつたのだらうと、今更不思議でならなかつた。本家と死んだ良郎とは少年時代から犬猿も啻ならぬ間柄だつたので、次兄の生きてゐる間は孝養を盡してくれるものへの義理から本家とよそよそしくしてゐるのかと私は思つてゐた。が不幸の直後本家から一緒にならうといふ話の出た時、おばあさんは顏色を變へて、いやだと云つた。それ以來今日まで本家は隱居所の生活に指一本觸れない態度のままだつた。だが私から見れば、今は追放令下にしよんぼりとしてゐるが、一時は華かな官僚であり、有望な政治家ともみえた長男の傍から、謂はばその日暮しの末女の私の疎開先へ死にに來るおばあさんを、幸福だとは思へなかつた。おばあさん自身にしても、二三日とか一週間とか云つてみるのは、世間への本家の顏を立てる爲で、内心は未知の伊東へ死にに行くつもりなのに違ひなかつた。私はおばあさんの一生懸命な足取を見るにつけ、悲壯といつたやうなものも感ぜざるを得なかつた。
 駈け拔いて切符を求めると、私は一度三人について歩廊まで降りたが、女中の分の切符まで持つてきてしまつたのに氣付いて、もう一度改札口の方へ戻つて行つた。ちやうど其處へ、よそいきのモンペに早變りした女中が、息をはずませながら走り寄つてきた。時間はまだ充分あるのだからと劬りながらもう一度降りにかかると、オレンヂ色の薄光をまともに受けた三人が、帽子を手に持つた一人の紳士と挨拶を交してゐるのがだ
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