く來てくれましたね。」
「おばあさん大丈夫ですか。」
「ええ、ええ。何處といつてどうもないんですよ。自分でも不思議なくらゐ。」
「御本家では何と仰しやつて?」
「私が行くと云ふものを、何が云へるものですか。二三日温泉に入つてくると云つたら、あわててね、せつかくいらつしやるのだつたらゆつくりなすつた方がと云ふんですよ。」
「それはさうですよ。二三日ぢや疲れに行くやうなものぢやありませんか。」
「さうですかね。向うぢやとてもよろこんでるんですよ。目の上の瘤がなくなると思つてね。」
おばあさんは九十三になつてもまだ口の毒を失つてゐない。私は包を引寄せて、
「これはあしたの朝あがるお魚、これはお辨當の甘いパン、これは疲れた時に召し上る葡萄糖、これは熱いお茶を入れて行く魔法壜、それからこれは、おさつ――」
「オヤオヤもうおさつが出ましたか。まあまあ、これだけ揃へるのは大變だつたでせうね。」
おばあさんは冴えざえとした目にもう一度輝きを加へ、明日の遠足で心もそぞろの如くだつた。
「いつもはもうお休みの頃ぢやないの?」
「ええ、でも、――」
「今夜はいつもよりよけい休んどいていただかないと、――」
「なに大丈夫ですよ。お午にはうなぎも食べたし。」
「よくお手に入つてね。」
「美耶川さんが持つてきて下すつたんですよ。伊東へ行くのならしばらく會へないからといつて。」
「何て御親切なんでせう。」
「さうさう、お風呂が沸いてるんですよ。あなたお入んなすつたら?」
「おばあさんこそ早く入つてお休みなさい。私は御本家に伺つて來なくちや。」
「さうですね。來ると云つてあるから、待つてるかも知れませんね。」
私は又「來るに及ばぬ」を思ひ起し、苦笑せざるを得なかつた。
本家では夫妻も子供達も何かいそいそと私を迎へ入れてくれた。私は平素の無沙汰を詫び、接收の惧れの去つたらしい悦びを述べると、本家は財産税に就いての長い愚痴になつた。
「今度はおばあさんが御厄介になりに伺ふさうで、どうも、――」
「いえ。でもおばあさまは何と仰しやつてらつしやいましたか。」
「昨日見えてね、痒いところがあるから二三日温泉に入つてくる。そりやいい。しかしどうして行らつしやると訊いたら、伊東から迎へに來る。――でも明日は日曜で混みやしませんか。」
「通勤者はないわけでせう。私は又おばあさまがお出かけになると云つたら、こちらでお送りでも下さるのぢやないかと思つて、わざと日曜を選んだわけでもあつたのですが。何分お年のことですから、途中どんなことがないものでもない。」
「なに大丈夫でせう。」
本家はのんきさうにさう云ふうち、ふと、追放令以來めつきり氣力を失つた顏に内心の狼狽を滲ませて、
「あつしも近頃は年でね、驛の昇降にも自信がないくらゐなんですよ。だからおばあさんをあつしがおんぶして行くといふわけにも行かない。代りに幸夫をやれるといいんだが、明日はあいにく舊師の謝恩會か何かあるとかで。」
「いいえ、いいんですよ。おばあさまには豫め事を分けて御本家にかうかう申し上げてくれと手紙を出しておいたのですが、九十三の頭ではそれをこちらへお傳へすることも御無理だつたのに違ひありません。私は親子のことですから、假令どんなことがあつても、何と云はれても、お氣持に添へさへすればそれでいいんですが、血の續いてゐないものには一應の形をつけないとと思つたものですから。その代りおばあさまが又こちらへ歸りたいと仰しやり出した時には、幸夫さんにでもお迎へに來ていただけますでせうね。」
「そりや、電報でも打つて下さればすぐ。休みの日ならいつでも、――おい、幸夫、幸夫。」
本家は幾分何かを發散するやうに大きな聲を立てて、復員して以來妻子と二階住居をしてゐる長男を呼び下した。そして今までの話を丁寧に繰り返し、いつでもおばあさまのお迎へに行くことを約束させた。私は本家があまり素直で、弱氣で、我慢強いのを頼りないなと思つた。で出來るだけのことはするつもりだが、不屆のあつた場合の詫は先に申し上げておくと繰り返し云つた。
「しかしあんたも大變でせう。おばあさんは米しか食はんのだから。」
伊東から運ぶのよりは樂だと出かかるのを私は危ふく押へた。そして毒の出ぬうちにといとまを告げた。
おばあさんは床の中で私の歸りを待つてゐた。が、ざつと浴びて出てきた時にはかすかな鼾を立ててゐた。私は女中と小聲で明日の打合せをすませ、早くしまつて寢るやうに云ふと、座敷に※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて、次兄の書架の前に佇んだ。おばあさんはおそらく伊東に落着くことになるだらう。おばあさんがゐないとなれば、此家に再び來ることはないだらう。すると私には、おばあさんをあんなにも大事にし、死水まで取つてもらつた次兄の遺物を此家に置き殘
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