。明日の午前中だけでも、もつてくれればいい。おばあさんは何しろ米壽の時以來電車などには乘つたこともないのだから、何處まで乘りこたへられるか判つたものではない。何事につけても降られたのでは困る。――
 雲の切れ目がすうつと開《ひら》けたと思つたら、電車はもう多摩川の上だつた。私は網棚の風呂敷包を下し、手提を左の脇に挾んで、バランスを取りとり出入口の方へ歩いて行つた。まだ釣革でぶらんこをしてゐるGIは私の近づくのを見ると、不意に手と體躯とでアーチをつくつてくれた。
「オー・サンクス」と反射的に口の中が動いただけだつたが、するとさつき靴を見てゐたもう一人は、不意に又頭の上で、
「東京まで行くのかと思つてたのに。」と云つた。東京とは新宿の意なのであらう。
「どうして?」
「その如くに見えた。」
「でも、東京の家は失つてしまつた。」
「オー、でこのあたりに住んでゐるのか。」
「さうぢやない、母を訪ねるのだ。」
「オアウ!」
 彼の青い目は急に故國の母の方に向けられたやうだつた。きつとまだ若い母親であらう。私は、訪ねる母が九十三歳だといふことが彼に考へられるかしらと思つた。それからふと彼國の大統領の母堂が、たしかおばあさんと同年で、飛行機でワシントン入りをしたといふ記事を思ひ起した。ことによるとおばあさんも案外平氣で、おばあさんにとつては長途の旅を乘り切ることが出來るかも知れない。
 目の前の扉が開いたので私は稍浩然と、振り向きもせず歩廊に降り立ち、そのまますたすたと階段の方へ歩いて行つた。

       三

 うつむいて又想ひに陷ちながら日暮の並木路に出ると、
「奧樣奧樣」とがさつな女中の聲がして、意外な近さににこにこ顏が現はれた。「御隱居樣はさつきからお待ちかねでございますよ。わたくしちよつと登録にまゐつてまゐりますから、――すぐ戻ります。」
 私は前日おばあさんから屆けて寄こした手紙に、女中と行くから迎へに來るには及ばないとあつたのを思ひ起し、さう書きながら待ちかねてゐるところはやつぱりおばあさんだなと思つた。
 玄關を開けて、
「お待遠さま。」と快活な聲を送ると、坐つたままのやうな姿勢でよちよちと現はれたおばあさんは、――何といふ目の輝きだ。私は胸を打たれる氣がした。おばあさんはそれほどまで此日を待つてゐたのだ。それほどまでおばあさんは侘しかつたのだ。
「まあまあよ
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