あさんには良郎といふものがあつた。風來坊の此次男はお酒と、それから四十過ぎて貰つてぢき別れた細君のことで、おばあさんにずゐぶん苦勞をかけたものだつた。がお酒のどうにもならなくなつてからは、俄然孝養到らざるなしになつてしまつた。おそらくひとり身の彼にとつては古陶のやうなおばあさんが凡ての寄りどころとなつたのであらう。茉莉花や菊をつくるのの巧かつた彼は、食糧事情が窮迫して來るにつれ、そら豆とか莢豌豆とか菠薐草とか、さういつたおばあさんの口に合ふものの方へ轉向して行つた。本業はロシア語で、アルツィバーシェフやゴリキーの飜譯もあるのだが、書架にはだんだんバーバンクとかミチューリンとかがのさばり出した。おばあさんの隱居所は長男の邸内の片隅に在るのだが、本家で百姓につくらす野菜は枯れがれなのに、隱居所の縁先はいつも青あをと、心丈夫な眺めだつた。おばあさんはかう考へたのに違ひない。良郎は自分の爲にあれほど氣を入れて畑をつくつてゐる。それを見棄てて伊東へ行くのは可哀想だ。のみならず本家の嫁は伊東から招きがあつたと洩らした時、ああ行らつしやいまし、あとは貸して、おばあさまにお小遣を送つて差上げますと云つた。すると自分が動けば良郎は住ふところを失ふわけになる。そんな想ひの果だらう、おばあさんは、やはり此處にゐるといふ返事を寄こした。
だがその良郎は空襲の怖れもなくなつた年の暮、不意に死んでしまつた。縁先の菠薐草は雪の中でも不思議なほど青あをと旺んだつたが、たうとうそれもおしまひになる頃には圓の切りかへといふことが來た。慣れた女中がついてゐるとはいへ、九十三歳の頭で此難局に處して行くことは不可能といつてよかつた。といつておばあさんは長年のしきたりで、つい目の先にゐる長男夫妻には一切ものを頼まない。頼まない限り夫妻の方も知らぬ顏で押し通す。そのうち慣れた女中にぼつぼつ縁談がかかつてきた。それでも本家の世話になるのはいやなのださうだつた。
――私もこれからは三度に一度はパンを食べます。だんだんパンを二度にします。そのうちには三度共パンにしてもいい覺悟で居ります。おすがり申すのは天にも地にもお前樣よりほかないのですから、どうぞお見棄て下さいますな。
古風ながら九十三歳にしてはしつかりし過ぎたペン書きで、おばあさんはそんな手紙を寄こすやうになつた。侘しくなるとおばあさんは、もう伊東から來て
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