と易《かは》らず芝《しば》に住《す》んで居《ゐ》ましたから、往復《わうふく》ともに手を携《たづさ》へて、議論《ぎろん》を上下《じやうげ》するも大きいが、お互《たがひ》の談《はなし》も数年前《すうねんまえ》よりは真面目《まじめ》に成《な》つた、さて話をして見ると、山田《やまだ》は文章を以《も》つて立たうと云《い》ふ精神《せいしん》、私《わたし》も同断《どうだん》だ、私《わたし》の此《この》志《こゝろざし》を抱《いだ》いたのは、予備門《よびもん》に入学して一年《いちねん》許《ばかり》過《す》ぎての事であるが、山田《やまだ》は彼《か》の第二中学に居《ゐ》る時分から早く業《すで》に那様《こんな》了見《りやうけん》が有つたらしいのです、一年《いちねん》前《ぜん》に其志《そのこゝろざし》を抱《いだ》いた私《わたし》は未《ま》だ小説の筆《ふで》は仇《と》つて見なかつたのであるが、恐《おそ》る可《べ》き哉《かな》、己《おのれ》より三歳《みつ》弱《わか》い山田《やまだ》が既《すで》に竪琴草子《たてごとざうし》なる一篇《いつぺん》を綴《つゞ》つて、疾《とう》から価《あたへ》を待《ま》つ者であつたのは奈何《どう》です、然《さう》云《い》ふ物を書いたから、是非《ぜひ》一読《いちどく》して批評《ひゝやう》をしてくれと言つて百五六中|枚《まい》も有る一冊《いつさつ》の草稿《そうかう》を私《わたし》に見せたのでありました、其《そ》の小説はアルフレツド大王《だいわう》の事蹟《じせき》を仕組《しく》んだもので文章《ぶんしやう》は馬琴《ばきん》を学《まな》んで、実に好《よ》く出来て居《ゐ》て、私《わたし》は舌《した》を巻《ま》きました、なか/\批評《ひゝやう》どころではない、敬服《けいふく》して了《しま》つたのです、因《そこ》で考へた、彼《かれ》が二|年《ねん》晩《おく》れて予備門《よびもん》に入つて来たのは、意味《いみ》無くして遅々《ぐづ/\》して居《ゐ》たのではない、其間《そのあひだ》に余程《よほど》文章を修行《しゆぎやう》したものらしい、増上寺《ぞうじやうじ》の行誡上人《ぎやうかいしやうにん》や石川鴻斎翁《いしかはこうさいおう》の所へ行つたのは総《すべ》て此間《このあひだ》の事で、而《そ》して専《もつぱ》ら独修《どくしう》をした者と見える、何《なん》でも西郷隆盛論《さいごうたかもりろん》であつた
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