らすぢ》で、年月《ねんげつ》などは別《べつ》して記憶《きおく》して居《を》らんのですから、随分《ずゐぶん》私《わたし》の思違《おもひちが》ひも多からうと思ひます、其《それ》は他日《たじつ》善《よ》く正《たゞ》します、
抑《そもそ》も硯友社《けんいうしや》の起《おこ》つたに就《つい》ては、私《わたし》が山田美妙《やまだびめう》君《くん》(其頃《そのころ》別号《べつがう》を樵耕蛙船《せうかうあせん》と云《い》ひました)と懇意《こんい》に成《な》つたのが、其《そ》の動機《どうき》でありますから、一寸《ちよつと》其《そ》の交際《かうさい》の大要《たいえう》を申上《まをしあ》げて置く必要が有る、明治十五年の頃《ころ》でありましたか東京府の構内《かうない》に第二中学と云《い》ふのが在《あ》りました、一《ひと》ツ橋《ばし》内《うち》の第一中学に対して第二と云《い》つたので、それが私《わたし》が入学した時に、私《わたし》より二級上に山田武太郎《やまだたけたらう》なる少年が居《を》つたのですが、此《この》少年は其《そ》の級中《きふちう》の年少者《ねんせうしや》で在《あ》りながら、漢文《かんぶん》でも、国文《こくぶん》でも、和歌《わか》でも、詩《し》でも、戯作《げさく》でも、字も善《よ》く書いたし、画《ゑ》も少しは遣《や》ると云《い》つたやうな多芸《たげい》の才子《さいし》で、学課《がくくわ》も中以上《ちういじやう》の成績《せいせき》であつたのは、校中《かうちう》評判《ひやうばん》の少年でした、私《わたし》は十四五の時分《じぶん》はなか/\の暴《あば》れ者で、課業《くわげふ》の時間を迯《に》げては運動場《うんどうば》へ出て、瓦廻《かはらまわ》しを遣《や》る、鞦韆飛《ぶらんことび》を遣《や》る、石ぶつけでも、相撲《すまふ》でも撃剣《げきけん》の真似《まね》でも、悪作劇《わるいたずら》は何《なん》でも好《すき》でした、(尤《もつと》も唯今《たゞいま》でも余《あま》り嫌《きら》ひの方《はう》ではない)然《しか》るに山田《やまだ》は極《ごく》温厚《おんこう》で、運動場《うんどうば》へ出て来ても我々《われ/\》の仲間に入《はい》つた事などは無い、超然《てうぜん》として独《ひと》り静《しづか》に散歩して居《を》ると云《い》つたやうな風《ふう》で、今考へて見ると、成程《なるほど》年少詩人《ねんせうし
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