る日脚《ひざし》は、袋棚《ふくろだな》に据ゑたる福寿草《ふくじゆそう》の五六輪|咲揃《さきそろ》へる葩《はなびら》に輝きつつ、更に唯継の身よりは光も出づらんやうに、彼は昼眩《ひるまばゆ》き新調の三枚襲《さんまいがさね》を着飾りてその最も珍《ちん》と為る里昂《リヨン》製の白の透織《すかしおり》の絹領巻《きぬえりまき》を右手《めて》に引※[#「※」は「てへん+區」、306−10]《ひきつくろ》ひ、左に宮の酌を受けながら、
「あ、拙《まづ》い手付《てつき》……ああ零《こぼ》れる、零れる! これは恐入つた。これだからつい余所《よそ》で飲む気にもなりますと謂《い》つて可い位のものだ」
「ですから多度上《たんとあが》つていらつしやいまし」
「宜《よろし》いかい。宜いね。宜い。今夜は遅いよ」
「何時頃お帰来《かへり》になります」
「遅いよ」
「でも大約《おほよそ》時間を極めて置いて下さいませんと、お待ち申してをる者は困ります」
「遅いよ」
「それぢや十時には皆《みんな》寝みますから」
「遅いよ」
又言ふも煩《わづらはし》くて宮は口を閉ぢぬ。
「遅いよ」
「…………」
「驚くほど遅いよ」
「…………」
「おい、些《ちよつ》と」
「…………」
「おや。お前|慍《おこ》つたのか」
「…………」
「慍らんでも可いぢやないか、おい」
彼は続け様に宮の袖《そで》を曳けば、
「何を作《なさ》るのよ」
「返事を為んからさ」
「お遅《おそ》いのは解りましたよ」
「遅くはないよ、実は。だからして、まあ機嫌《きげん》を直すべし」
「お遅いなら、お遅いで宜《よろし》うございますから……」
「遅くはないと言ふに、お前は近来|直《ぢき》に慍るよ、どう云ふのかね」
「一つは病気の所為《せゐ》かも知れませんけれど」
「一つは俺の浮気の所為かい。恐入つたね」
「…………」
「お前一つ飲まんかい」
「私《わたくし》沢山」
「ぢや俺が半分|助《す》けて遣るから」
「いいえ、沢山なのですから」
「まあさう言はんで、少し、注《つ》ぐ真似《まね》」
「欲くもないものを、貴方は」
「まあ可いさ。お酌は、それかう云ふ塩梅《あんばい》に、愛子流かね」
妓《ぎ》の名を聞ける宮の如何《いか》に言ふらん、と唯継は陰《ひそか》に楽み待つなる流眄《ながしめ》を彼の面《おもて》に送れるなり。
宮は知らず貌《がほ》に一口の酒を喞《ふく》みて、眉《まゆ》を顰《ひそ》めたるのみ。
「もう飲めんのか。ぢや此方《こつち》にお寄来《よこ》し」
「失礼ですけれど」
「この上へもう一盃注《いつぱいつ》いで貰はう」
「貴方、十時過ぎましたよ、早くいらつしやいませんか」
「可いよ、この二三日は別に俺の為る用は無いのだから。それで実はね今日は少し遅くなるのだ」
「さうでございますか」
「遅いと云つたつて怪いのぢやない。この二十八日に伝々会の大温習《おほざらひ》が有るといふ訳だらう、そこで今日五時から糸川《いとがわ》の処へ集つて下温習《したざらひ》を為るのさ。俺は、それお特得《はこ》の、「親々《おやおや》に誘《いざな》はれ、難波《なにわ》の浦《うら》を船出《ふなで》して、身を尽したる、憂きおもひ、泣いてチチチチあかしのチントン風待《かぜまち》にテチンチンツン……」
厭《いとは》しげに宮の余所見《よそみ》せるに、乗地《のりぢ》の唯継は愈《いよい》よ声を作りて、
「たまたま逢ひはア――ア逢ひイ――ながらチツンチツンチツンつれなき嵐《あらし》に吹分《ふきわ》けられエエエエエエエエ、ツンツンツンテツテツトン、テツトン国へ帰ればアアアアア父《ちち》イイイイ母《はは》のチチチチンチンチンチンチンチイン〔思ひも寄らぬ夫定《つまさだめ》……」
「貴方もう好加減《いいかげん》になさいましよ」
「もう少し聴いてくれ、〔立つる操《みさを》を破ら……」
「又|寛《ゆつく》り伺ひますから、早くいらつしやいまし」
「然し、巧くなつたらう、ねえ、些《ちよつ》と聞けるだらう」
「私には解りませんです」
「これは恐入つた、解らないのは情無いね。少し解るやうに成つて貰《もら》はうか」
「解らなくても宜うございます」
「何、宜いものか、浄瑠璃《じようるり》の解らんやうな頭脳《あたま》ぢや為方《しかた》が無い。お前は一体冷淡な頭脳《あたま》を有《も》つてゐるから、それで浄瑠璃などを好まんのに違無い。どうもさうだ」
「そんな事はございません」
「何、さうだ。お前は一体冷淡さ」
「愛子はどうでございます」
「愛子か、あれはあれで冷淡でないさ」
「それで能く解りました」
「何が解つたのか」
「解りました」
「些《ちつと》も解らんよ」
「まあ可《よ》うございますから、早くいらつしやいまし、さうして早くお帰りなさいまし」
「うう、これは恐入つた、冷淡でない。ぢや早く帰る、お前待つてゐるか」
「私は何時《いつ》でも待つてをりますぢや御座いませんか」
「これは冷淡でない!」
漸《やうや》く唯継の立起《たちあが》れば、宮は外套《がいとう》を着せ掛けて、不取敢《とりあへず》彼に握手を求めぬ。こは決《け》して宮の冷淡ならざるを証するに足らざるなり、故《ゆゑ》は、この女夫《めをと》の出入《しゆつにゆう》に握手するは、夫の始より命じて習せし躾《しつけ》なるをや。
(三) の 二
夫を玄関に送り出《い》でし宮は、やがて氷の窖《あなぐら》などに入《い》るらん想《おもひ》しつつ、是非無き歩《あゆみ》を運びて居間に還《かへ》りぬ。彼はその夫と偕《とも》に在るを謂《い》はんやう無き累《わづらひ》と為《す》なれど、又その独《ひとり》を守りてこの家に処《おか》るるをも堪《た》へ難く悒《いぶせ》きものに思へるなり。必《かならず》しも力《つと》むるとにはあらねど、夫の前には自《おのづか》ら気の張ありて、とにかくにさるべくは振舞へど恣《ほしいま》まなる身一箇《みひとつ》となれば、遽《にはか》に慵《ものう》く打労《うちつか》れて、心は整へん術《すべ》も知らず紊《みだ》れに乱るるが常なり。
火鉢《ひばち》に倚《よ》りて宮は、我を喪《うしな》へる体《てい》なりしが、如何《いか》に思入《おもひい》り、思回《おもひまは》し思窮《おもひつ》むればとて、解くべきにあらぬ胸の内の、終《つひ》に明けぬ闇《やみ》に彷徨《さまよ》へる可悲《かな》しさは、在るにもあられず身を起して彼は障子の外なる縁に出《い》でたり。
麗《うるはし》く冱《さ》えたる空は遠く三四《みつよつ》の凧《いか》の影を転じて、見遍《みわた》す庭の名残《なごり》無く冬枯《ふゆか》れたれば、浅露《あからさま》なる日の光の眩《まばゆ》きのみにて、啼狂《なきくる》ひし梢《こずゑ》の鵯《ひよ》の去りし後は、隔てる隣より戞々《かつかつ》と羽子《はね》突く音して、なかなかここにはその寒さを忍ぶ値《あたひ》あらぬを、彼はされども少時《しばし》居て、又空を眺《なが》め、又|冬枯《ふゆがれ》を見遣《みや》り、同《おなじ》き日の光を仰ぎ、同き羽子の音を聞きて、抑《おさ》へんとはしたりけれども抑へ難さの竟《つひ》に苦く、再び居間に入《い》ると見れば、其処《そこ》にも留らで書斎の次なる寝間《ねま》に入《い》るより、身を抛《なげう》ちてベットに伏したり。
厚き蓐《しとね》の積れる雪と真白き上に、乱畳《みだれたた》める幾重《いくへ》の衣《きぬ》の彩《いろどり》を争ひつつ、妖《あで》なる姿を意《こころ》も介《お》かず横《よこた》はれるを、窓の日の帷《カアテン》を透《とほ》して隠々《ほのぼの》照したる、実《げ》に匂《にほひ》も零《こぼ》るるやうにして彼は浪《なみ》に漂ひし人の今|打揚《うちあ》げられたるも現《うつつ》ならず、ほとほと力竭《ちからつ》きて絶入《たえい》らんとするが如く、止《た》だ手枕《てまくら》に横顔を支へて、力無き眼《まなこ》を※[#「※」は「目+登」、312−5]《みは》れり。竟《つひ》には溜息《ためいき》※[#「※」は「口+句」、312−5]《つ》きてその目を閉づれば、片寝に倦《う》める面《おもて》を内向《うちむ》けて、裾《すそ》の寒さを佗《わび》しげに身動《みうごき》したりしが、猶《なほ》も底止無《そこひな》き思の淵《ふち》は彼を沈めて※[#「※」は「しんにょう+官」、312−6]《のが》さざるなり。
隅棚《すみだな》の枕時計は突《はた》と秒刻《チクタク》を忘れぬ。益《ますま》す静に、益す明かなる閨《ねや》の内には、空《むな》しとも空《むなし》き時の移るともなく移るのみなりしが、忽《たちま》ち差入る鳥影の軒端《のきば》に近く、俯《ふ》したる宮が肩頭《かたさき》に打連《うちつらな》りて飜《ひらめ》きつ。
やや有りて彼は嬾《しどな》くベットの上に起直りけるが、鬢《びん》の縺《ほつ》れし頭《かしら》を傾《かたぶ》けて、帷《カアテン》の隙《ひま》より僅《わづか》に眺めらるる庭の面《おも》に見るとしもなき目を遣りて、当所無《あてどな》く心の彷徨《さまよ》ふ蹤《あと》を追ふなりき。
久からずして彼はここをも出でて又居間に還れば、直《ぢき》に箪笥《たんす》の中より友禅縮緬《ゆうぜんちりめん》の帯揚《おびあげ》を取出《とりいだ》し、心に籠《こ》めたりし一通の文《ふみ》とも見ゆるものを抜きて、こたびは主《あるじ》の書斎に持ち行きて机に向へり。その巻紙は貫一が遺《のこ》せし筆の跡などにはあらで、いつかは宮の彼に送らんとて、別れし後の思の丈《たけ》を窃《ひそか》に書聯《かきつら》ねたるものなりかし。
往年《さいつとし》宮は田鶴見《たずみ》の邸内に彼を見しより、いとど忍びかねたる胸の内の訴へん方《かた》もあらぬ切なさに、唯心寛《ただこころゆかし》の仮初《かりそめ》に援《と》りける筆ながら、なかなか口には打出《うちいだ》し難き事を最好《いとよ》く書きて陳《つづ》けも為《せ》しを、あはれかのひとの許《もと》に送りて、思ひ知りたる今の悲しさを告げばやと、一図の意《こころ》をも定めしが、又案ずれば、その文は果して貫一の手に触れ、目にも入るべきか。よしさればとて、憎み怨《うら》める怒《いかり》の余に投返されて、人目に曝《さら》さるる事などあらば、徒《いたづら》に身を滅《ほろぼ》す疵《きず》を求めて終りなんをと、遣れば火に入る虫の危《あやふ》く、捨つるは惜くも、やがて好き首尾の有らんやうに拠無《よりどころな》き頼を繋《か》けつつ、彼は懊悩《おうのう》に堪へざる毎に取出でては写し易《か》ふる傍《かたは》ら、或《ある》は書添へ、或は改めなどして、この文に向へば自《おのづか》らその人に向ふが如く、その人に向ひてはほとほと言尽《いひつく》して心残《こころのこり》のあらざる如く、止《ただ》これに因《よ》りて欲するままの夢をも結ぶに似たる快きを覚ゆるなりき。かくして得送らぬ文は写せしも灰となり、反古《ほご》となりて、彼の帯揚に籠《こ》められては、いつまで草の可哀《あはれ》や用らるる果も知らず、宮が手習は実《げ》に久《ひさし》うなりぬ。
些箇《かごと》に慰められて過せる身の荒尾に邂逅《めぐりあ》ひし嬉しさは、何に似たりと謂《い》はんも愚《おろか》にて、この人をこそ仲立ちて、積る思を遂《と》げんと頼みしを、仇《あだ》の如く与《くみ》せられざりし悲しさに、さらでも切なき宮が胸は掻乱《かきみだ》れて、今は漸《やうや》く危きを懼《おそ》れざる覚悟も出《い》で来て、いつまで草のいつまでかくてあらんや、文は送らんと、この日頃思ひ立ちてけり。
紙の良きを択《えら》び、筆の良きを択び、墨の良きを択び、彼は意《こころ》してその字の良きを殊《こと》に択びて、今日の今ぞ始めて仮初《かりそめ》ならず写さんと為《す》なる。打顫《うちふる》ふ手に十行|余《あまり》認《したた》めしを、つと裂きて火鉢に差※[#「※」は「くさかんむり+熱」、313−16]《さしく》べければ、焔《ほのほ》の急に炎々と騰《のぼ》るを、可踈《うとま》しと眺めたる折しも、紙門《ふすま》を啓《あ》けてその光に惧《おび
前へ
次へ
全71ページ中46ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
尾崎 紅葉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング