と、彼はなかなか夫婦に増したる懽《よろこび》を懐《いだ》きて、益《ますます》学問を励みたり。宮も貫一をば憎からず思へり。されど恐くは貫一の思へる半《なかば》には過ぎざらん。彼は自らその色好《いろよき》を知ればなり。世間の女の誰《たれ》か自らその色好を知らざるべき、憂ふるところは自ら知るに過《すぐ》るに在り。謂《い》ふ可くんば、宮は己《おのれ》が美しさの幾何《いかばかり》値するかを当然に知れるなり。彼の美しさを以てして纔《わづか》に箇程《かほど》の資産を嗣《つ》ぎ、類多き学士|風情《ふぜい》を夫に有たんは、決して彼が所望《のぞみ》の絶頂にはあらざりき。彼は貴人の奥方の微賤《びせん》より出《い》でし例《ためし》寡《すくな》からざるを見たり。又は富人の醜き妻を厭《いと》ひて、美き妾《めかけ》に親むを見たり。才だにあらば男立身は思のままなる如く、女は色をもて富貴《ふうき》を得べしと信じたり。なほ彼は色を以て富貴を得たる人たちの若干《そくばく》を見たりしに、その容《かたち》の己《おのれ》に如《し》かざるものの多きを見出《みいだ》せり。剰《あまつさ》へ彼は行く所にその美しさを唱はれざるはあらざりき。なほ一件《ひとつ》最も彼の意を強うせし事あり。そは彼が十七の歳《とし》に起りし事なり。当時彼は明治音楽院に通ひたりしに、ヴァイオリンのプロフェッサアなる独逸《ドイツ》人は彼の愛らしき袂《たもと》に艶書《えんしよ》を投入れぬ。これ素《もと》より仇《あだ》なる恋にはあらで、女夫《めをと》の契《ちぎり》を望みしなり。殆《ほとん》ど同時に、院長の某《なにがし》は年四十を踰《こ》えたるに、先年その妻を喪《うしな》ひしをもて再び彼を娶《めと》らんとて、密《ひそか》に一室に招きて切なる心を打明かせし事あり。
 この時彼の小《ちひさ》き胸は破れんとするばかり轟《とどろ》けり。半《なかば》は曾《かつ》て覚えざる可羞《はづかしさ》の為に、半は遽《にはか》に大《おほい》なる希望《のぞみ》の宿りたるが為に。彼はここに始めて己《おのれ》の美しさの寡《すくな》くとも奏任以上の地位ある名流をその夫《つま》に値《あた》ひすべきを信じたるなり。彼を美く見たるは彼の教師と院長とのみならで、牆《かき》を隣れる男子部《だんじぶ》の諸生の常に彼を見んとて打騒ぐをも、宮は知らざりしにあらず。
 若《もし》かのプロフェッサアに添はんか、或《あるひ》は四十の院長に従はんか、彼の栄誉ある地位は、学士を婿にして鴫沢の後を嗣《つ》ぐの比にはあらざらんをと、一旦|抱《いだ》ける希望《のぞみ》は年と共に太りて、彼は始終昼ながら夢みつつ、今にも貴き人又は富める人又は名ある人の己《おのれ》を見出《みいだ》して、玉の輿《こし》を舁《かか》せて迎に来《きた》るべき天縁の、必ず廻到《めぐりいた》らんことを信じて疑はざりき。彼のさまでに深く貫一を思はざりしは全くこれが為のみ。されども決して彼を嫌《きら》へるにはあらず、彼と添はばさすがに楽《たのし》からんとは念《おも》へるなり。如此《かくのごと》く決定《さだか》にそれとは無けれど又有りとし見ゆる箒木《ははきぎ》の好運を望みつつも、彼は怠らず貫一を愛してゐたり。貫一は彼の己を愛する外にはその胸の中に何もあらじとのみ思へるなりけり。

     第 四 章

 漆の如き闇《やみ》の中《うち》に貫一の書斎の枕時計は十時を打ちぬ。彼は午後四時より向島《むこうじま》の八百松《やおまつ》に新年会ありとて未《いま》だ還《かへ》らざるなり。
 宮は奥より手ラムプを持ちて入来《いりき》にけるが、机の上なる書燈を点《とも》し了《をは》れる時、婢《をんな》は台十能に火を盛りたるを持来《もちきた》れり。宮はこれを火鉢《ひばち》に移して、
「さうして奥のお鉄瓶《てつ》も持つて来ておくれ。ああ、もう彼方《あちら》は御寝《おやすみ》になるのだから」
 久《ひさし》く人気《ひとけ》の絶えたりし一間の寒《さむさ》は、今|俄《にはか》に人の温き肉を得たるを喜びて、直《ただ》ちに咬《か》まんとするが如く膚《はだへ》に薄《せま》れり。宮は慌忙《あわただし》く火鉢に取付きつつ、目を挙げて書棚《しよだな》に飾れる時計を見たり。
 夜の闇《くら》く静なるに、燈《ともし》の光の独《ひと》り美き顔を照したる、限無く艶《えん》なり。松の内とて彼は常より着飾れるに、化粧をさへしたれば、露を帯びたる花の梢《こずゑ》に月のうつろへるが如く、背後《うしろ》の壁に映れる黒き影さへ香滴《にほひこぼ》るるやうなり。
 金剛石《ダイアモンド》と光を争ひし目は惜気《をしげ》も無く※[#「※」は「目+登」、27−17]《みは》りて時計の秒《セコンド》を刻むを打目戍《うちまも》れり。火に翳《かざ》せる彼の手を見よ、玉の如くなり。さらば友禅模様ある紫縮緬《むらさきちりめん》の半襟《はんえり》に韜《つつ》まれたる彼の胸を想へ。その胸の中《うち》に彼は今|如何《いか》なる事を思へるかを想へ。彼は憎からぬ人の帰来《かへり》を待佗《まちわ》ぶるなりけり。
 一時《ひとしきり》又|寒《さむさ》の太甚《はなはだし》きを覚えて、彼は時計より目を放つとともに起ちて、火鉢の対面《むかふ》なる貫一が※[#「※」は「ころもへん+因」、28−3]《しとね》の上に座を移せり。こは彼の手に縫ひしを貫一の常に敷くなり、貫一の敷くをば今夜彼の敷くなり。
 若《もし》やと聞着けし車の音は漸《やうや》く近《ちかづ》きて、益《ますます》轟《とどろ》きて、竟《つひ》に我門《わがかど》に停《とどま》りぬ。宮は疑無《うたがひな》しと思ひて起たんとする時、客はいと酔《ゑ》ひたる声して物言へり。貫一は生下戸《きげこ》なれば嘗《かつ》て酔《ゑ》ひて帰りし事あらざれば、宮は力無く又坐りつ。時計を見れば早や十一時に垂《なんな》んとす。
 門《かど》の戸|引啓《ひきあ》けて、酔ひたる足音の土間に踏入りたるに、宮は何事とも分かず唯慌《ただあわ》ててラムプを持ちて出《い》でぬ。台所より婢《をんな》も、出合《いであ》へり。
 足の踏所《ふみど》も覚束無《おぼつかな》げに酔ひて、帽は落ちなんばかりに打傾《うちかたむ》き、ハンカチイフに裹《つつ》みたる折を左に挈《さ》げて、山車《だし》人形のやうに揺々《ゆらゆら》と立てるは貫一なり。面《おもて》は今にも破れぬべく紅《くれなゐ》に熱して、舌の乾《かわ》くに堪《た》へかねて連《しきり》に空唾《からつば》を吐きつつ、
「遅かつたかね。さあ御土産《おみやげ》です。還《かへ》つてこれを細君に遣《おく》る。何ぞ仁《じん》なるや」
「まあ、大変酔つて! どうしたの」
「酔つて了《しま》つた」
「あら、貫一《かんいつ》さん、こんな所に寐《ね》ちや困るわ。さあ、早くお上りなさいよ」
「かう見えても靴が脱げない。ああ酔つた」
 仰様《のけさま》に倒れたる貫一の脚《あし》を掻抱《かきいだ》きて、宮は辛《から》くもその靴を取去りぬ。
「起きる、ああ、今起きる。さあ、起きた。起きたけれど、手を牽《ひ》いてくれなければ僕には歩けませんよ」
 宮は婢《をんな》に燈《ともし》を把《と》らせ、自らは貫一の手を牽かんとせしに、彼は踉《よろめ》きつつ肩に縋《すが》りて遂《つひ》に放さざりければ、宮はその身一つさへ危《あやふ》きに、やうやう扶《たす》けて書斎に入《い》りぬ。
 ※[#「※」は「ころもへん+因」、29−7]《しとね》の上に舁下《かきおろ》されし貫一は頽《くづ》るる体《たい》を机に支へて、打仰《うちあふ》ぎつつ微吟せり。
「君に勧む、金縷《きんる》の衣《ころも》を惜むなかれ。君に勧む、須《すべから》く少年の時を惜むべし。花有り折るに堪《た》へなば直《ただち》に折る須《べ》し。花無きを待つて空《むなし》く枝を折ることなかれ」
「貫一さん、どうしてそんなに酔つたの?」
「酔つてゐるでせう、僕は。ねえ、宮《みい》さん、非常に酔つてゐるでせう」
「酔つてゐるわ。苦《くるし》いでせう」
「然矣《しかり》、苦いほど酔つてゐる。こんなに酔つてゐるに就《つ》いては大《おほ》いに訳が有るのだ。さうして又宮さんなるものが大いに介抱して可い訳が有るのだ。宮さん!」
「可厭《いや》よ、私は、そんなに酔つてゐちや。不断|嫌《きら》ひの癖に何故《なぜ》そんなに飲んだの。誰に飲《のま》されたの。端山《はやま》さんだの、荒尾さんだの、白瀬さんだのが附いてゐながら、酷《ひど》いわね、こんなに酔《よは》して。十時にはきつと帰ると云ふから私は待つてゐたのに、もう十一時過よ」
「本当に待つてゐてくれたのかい、宮《みい》さん。謝《しや》、多謝《たしや》! 若《もし》それが事実であるならばだ、僕はこのまま死んでも恨みません。こんなに酔されたのも、実はそれなのだ」
 彼は宮の手を取りて、情に堪へざる如く握緊《にぎりし》めつ。
「二人の事は荒尾より外に知る者は無いのだ。荒尾が又決して喋《しやべ》る男ぢやない。それがどうして知れたのか、衆《みんな》が知つてゐて……僕は実に驚いた。四方八方から祝盃《しゆくはい》だ祝盃だと、十も二十も一度に猪口《ちよく》を差されたのだ。祝盃などを受ける覚《おぼえ》は無いと言つて、手を引籠《ひつこ》めてゐたけれど、なかなか衆《みんな》聴かないぢやないか」
 宮は窃《ひそか》に笑《ゑみ》を帯びて余念なく聴きゐたり。
「それぢや祝盃の主意を変へて、仮初《かりそめ》にもああ云ふ美人と一所《いつしよ》に居て寝食を倶《とも》にすると云ふのが既に可羨《うらやまし》い。そこを祝すのだ。次には、君も男児《をとこ》なら、更に一歩を進めて、妻君に為るやうに十分運動したまへ。十年も一所に居てから、今更人に奪《と》られるやうな事があつたら、独《ひと》り間貫一|一《いつ》個人の恥辱ばかりではない、我々|朋友《ほうゆう》全体の面目にも関する事だ。我々朋友ばかりではない、延《ひ》いて高等中学の名折《なをれ》にもなるのだから、是非あの美人を君が妻君にするやうに、これは我々が心を一《いつ》にして結《むすぶ》の神に祷《いの》つた酒だから、辞退するのは礼ではない。受けなかつたら却《かへ》つて神罰が有ると、弄謔《からかひ》とは知れてゐるけれど、言草《いひぐさ》が面白かつたから、片端《かたつぱし》から引受けて呷々《ぐひぐひ》遣付《やつつ》けた。
 宮さんと夫婦に成れなかつたら、はははははは高等中学の名折になるのだと。恐入つたものだ。何分|宜《よろし》く願ひます」
「可厭《いや》よ、もう貫一さんは」
「友達中にもさう知れて見ると、立派に夫婦にならなければ、弥《いよい》よ僕の男が立たない義《わけ》だ」
「もう極《きま》つてゐるものを、今更……」
「さうでないです。この頃|翁《をぢ》さんや姨《をば》さんの様子を見るのに、どうも僕は……」
「そんな事は決《け》して無いわ、邪推だわ」
「実は翁さんや姨さんの了簡《りようけん》はどうでも可い、宮さんの心一つなのだ」
「私の心は極つてゐるわ」
「さうかしらん?」
「さうかしらんて、それぢや余《あんま》りだわ」
 貫一は酔《ゑひ》を支へかねて宮が膝《ひざ》を枕に倒れぬ。宮は彼が火の如き頬《ほほ》に、額に、手を加へて、
「水を上げませう。あれ、又|寐《ね》ちや……貫一さん、貫一さん」
 寔《まこと》に愛の潔《いさぎよ》き哉《かな》、この時は宮が胸の中にも例の汚れたる希望《のぞみ》は跡を絶ちて彼の美き目は他に見るべきもののあらざらんやうに、その力を貫一の寐顔に鍾《あつ》めて、富も貴きも、乃至《ないし》有《あら》ゆる利慾の念は、その膝に覚ゆる一団の微温の為に溶《とろか》されて、彼は唯妙《ただたへ》に香《かうばし》き甘露《かんろ》の夢に酔《ゑ》ひて前後をも知らざるなりけり。
 諸《もろもろ》の可忌《いまはし》き妄想《もうぞう》はこの夜の如く眼《まなこ》を閉ぢて、この一間《ひとま》に彼等の二人よりは在らざる如く、彼は世間に別人の影を見ずして、又この明《あきらか》なる燈火《ともしび》の光の如きものありて、
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