あ》はずに直《ずつ》と行つて了《しま》ひたいのだから、さう云ふ都合にして下さいな。私はもう逢はずに行くわ」
 声は低くなりて、美き目は湿《うるほ》へり。彼は忘れざるべし、その涙を拭《ぬぐ》へるハンカチイフは再び逢はざらんとする人の形見なるを。
「お前がそれ程に思ふのなら、何で自分から適《い》きたいとお言ひなのだえ。さう何時《いつ》までも気が迷つてゐては困るぢやないか。一日|経《た》てば一日だけ話が運ぶのだから、本当にどうとも確然《しつかり》極《き》めなくては可《い》けないよ。お前が可厭《いや》なものを無理にお出《いで》といふのぢやないのだから、断るものなら早く断らなければ、だけれど、今になつて断ると云つたつて……」
「可《い》いわ。私は適くことは適くのだけれど、貫一さんの事を考へると情無くなつて……」
 貫一が事は母の寝覚にも苦むところなれば、娘のその名を言ふ度《たび》に、犯せる罪をも歌はるる心地して、この良縁の喜ぶべきを思ひつつも、さすがに胸を開きて喜ぶを得ざるなり。彼は強《し》ひて宮を慰めんと試みつ。兼ねては自ら慰むるなるべし。
「お父《とつ》さんからお話があつて、貫一さんもそれで
前へ 次へ
全708ページ中74ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
尾崎 紅葉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング