も掛けず侮《あなど》りたりし己《おのれ》こそ、先づ侮らるべき愚《おろか》の者ならずや。
看《み》よ、看よ、木々の緑も、浮べる雲も、秀《ひいづ》る峰も、流るる渓《たに》も、峙《そばだ》つ巌《いはほ》も、吹来《ふきく》る風も、日の光も、鶏《とり》の鳴く音《ね》も、空の色も、皆|自《おのづか》ら浮世の物ならで、我はここに憂《うれひ》を忘れ、悲《かなしみ》を忘れ、苦《くるしみ》を忘れ、労《つかれ》を忘れて、身はかの雲と軽く、心は水と淡く、希《こひねが》はくは今より如此《かくのごと》くして我生を了《をは》らん哉《かな》。
恋も有らず、怨《うらみ》も有らず、金銭《ぜに》も有らず、権勢も有らず、名誉も有らず、野心も有らず、栄達も有らず、堕落も有らず、競争も有らず、執着も有らず、得意も有らず、失望も有らず、止《た》だ天然の無垢《むく》にして、形骸《けいがい》を安きのみなるこの里、我思《わがおもひ》を埋《うづ》むるの里か、吾骨を埋るの里か。
性来多く山水の美に親《したし》まざりし貫一は、殊《こと》に心の往くところを知らざるばかりに愛《め》で悦《よろこ》びて、清琴楼の二階座敷に案内《あない》されたれ
前へ
次へ
全708ページ中594ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
尾崎 紅葉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング