るなり。
 我《われ》未《いま》だ甞《かつ》て見ざりつる絶壁! 危《あやふ》しとも、可恐《おそろ》しとも、夢ならずして争《いかで》か飛下り得べき。又この人並《ひとなみ》ならぬ雲雀骨《ひばりぼね》の粉微塵《こなみじん》に散つて失《う》せざりしこそ、洵《まこと》に夢なりけれと、身柱《ちりけ》冷《ひやや》かに瞳《ひとみ》を凝《こら》す彼の傍《かたはら》より、これこそ名にし負ふ天狗巌《てんぐいわ》、と為《し》たり貌《がほ》にも車夫は案内《あない》す。
 貫一はかの夢の奇なりしより、更に更に奇なるこの塩原の実覚をば疑ひ懼《おそ》れつつ立尽せり。
 既に如此《かくのごと》くなれば、怪は愈《いよい》よ怪に、或《あるひ》は夢中に見たりし踪《あと》の猶《なほ》着々《ちやくちやく》活現し来《きた》りて、飽くまで我を脅《おびやか》さざれば休《や》まざらんと為るにあらずや、と彼は胸安からずも足に信《まか》せて、かの巌《いはほ》の頭上に聳《そび》ゆる辺《あたり》に到れば、谿《たに》急に激折して、水これが為に鼓怒《こど》し、咆哮《ほうこう》し、噴薄|激盪《げきとう》して、奔馬《ほんば》の乱れ競《きそ》ふが如し。こ
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