たいのです。死んで了へとお言ひでなくても、私はもう疾《とう》から自分ぢや生きてゐるとは思つてゐません」
「そんな事聞きたくはない。さあ、もう帰れと言つたら帰らんか!」
「帰りません! 私はどんな事してもこのままぢや……帰れません」
宮は男の手をば益す弛《ゆる》めず、益す激する心の中《うち》には、夫もあらず、世間もあらずなりて、唯この命を易《か》ふる者を失はじと一向《ひたぶる》に思入るなり。
折から縁に足音するは、老婢の来るならんと、貫一は取られたる手を引放たんとすれど、こは如何《いかに》、宮は些《ちと》も弛《ゆる》めざるのみか、その容《かたち》をだに改めんと為ず。果して足音は紙門《ふすま》の外に逼《せま》れり。
「これ、人が来る」
「…………」
宮は唯力を極《きは》めぬ。
不意にこの体《てい》を見たる老婢は、半《なかば》啓《あ》けたる紙門《ふすま》の陰に顔引入れつつ、
「赤樫《あかがし》さんがお出《いで》になりまして御座います」
窮厄の色はつと貫一の面《おもて》に上《のぼ》れり。
「ああ、今|其方《そつち》へ行くから。――さあ、客が有るのだ、好加減に帰らんか。ええ、放せ。客が
前へ
次へ
全708ページ中518ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
尾崎 紅葉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング