《け》して無いわ、邪推だわ」
「実は翁さんや姨さんの了簡《りようけん》はどうでも可い、宮さんの心一つなのだ」
「私の心は極つてゐるわ」
「さうかしらん?」
「さうかしらんて、それぢや余《あんま》りだわ」
貫一は酔《ゑひ》を支へかねて宮が膝《ひざ》を枕に倒れぬ。宮は彼が火の如き頬《ほほ》に、額に、手を加へて、
「水を上げませう。あれ、又|寐《ね》ちや……貫一さん、貫一さん」
寔《まこと》に愛の潔《いさぎよ》き哉《かな》、この時は宮が胸の中にも例の汚れたる希望《のぞみ》は跡を絶ちて彼の美き目は他に見るべきもののあらざらんやうに、その力を貫一の寐顔に鍾《あつ》めて、富も貴きも、乃至《ないし》有《あら》ゆる利慾の念は、その膝に覚ゆる一団の微温の為に溶《とろか》されて、彼は唯妙《ただたへ》に香《かうばし》き甘露《かんろ》の夢に酔《ゑ》ひて前後をも知らざるなりけり。
諸《もろもろ》の可忌《いまはし》き妄想《もうぞう》はこの夜の如く眼《まなこ》を閉ぢて、この一間《ひとま》に彼等の二人よりは在らざる如く、彼は世間に別人の影を見ずして、又この明《あきらか》なる燈火《ともしび》の光の如きものありて、
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