ですから、お還し申して下さい」
 彼は面《おもて》を伏せて又言はず、満枝は早くもその意を推《すい》して、また多くは問はず席に復《かへ》りて、
「お人違ではございませんでせうか、どうも御覚が無いと有仰《おつしや》るのでございます」
 長き髯《ひげ》を推揉《おしも》みつつ鴫沢は為方無《せんかたな》さに苦笑《にがわらひ》して、
「人違とは如何《いか》なことでも! 五年や七年会はんでも私《わし》は未《ま》だそれほど老耄《ろうもう》はせんのだ。然し覚が無いと言へばそれまでの話、覚もあらうし、人違でもなからうと思へばこそ、かうして折角会ひにも来たらうと謂ふもの。老人の私がわざわざかうして出向いて来たのでのう、そこに免じて、些《ちよつ》とでも会うて貰ひませう」
 挨拶《あいさつ》如何にと待てども、貫一は音だに立てざるなり。
「それぢや、何かい、こんなに言うても不承してはくれんのかの。ああ、さやうか、是非が無い。
 然し、貫一さん、能《よ》う考へて御覧、まあ、私たちの事をどう思うてゐらるるか知らんが、お前さんの爾来《これまで》の為方《しかた》、又今日のこの始末は、ちと妥当《おだやか》ならんではあるまい
前へ 次へ
全708ページ中362ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
尾崎 紅葉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング