禅模様ある紫縮緬《むらさきちりめん》の半襟《はんえり》に韜《つつ》まれたる彼の胸を想へ。その胸の中《うち》に彼は今|如何《いか》なる事を思へるかを想へ。彼は憎からぬ人の帰来《かへり》を待佗《まちわ》ぶるなりけり。
 一時《ひとしきり》又|寒《さむさ》の太甚《はなはだし》きを覚えて、彼は時計より目を放つとともに起ちて、火鉢の対面《むかふ》なる貫一が※[#「※」は「ころもへん+因」、28−3]《しとね》の上に座を移せり。こは彼の手に縫ひしを貫一の常に敷くなり、貫一の敷くをば今夜彼の敷くなり。
 若《もし》やと聞着けし車の音は漸《やうや》く近《ちかづ》きて、益《ますます》轟《とどろ》きて、竟《つひ》に我門《わがかど》に停《とどま》りぬ。宮は疑無《うたがひな》しと思ひて起たんとする時、客はいと酔《ゑ》ひたる声して物言へり。貫一は生下戸《きげこ》なれば嘗《かつ》て酔《ゑ》ひて帰りし事あらざれば、宮は力無く又坐りつ。時計を見れば早や十一時に垂《なんな》んとす。
 門《かど》の戸|引啓《ひきあ》けて、酔ひたる足音の土間に踏入りたるに、宮は何事とも分かず唯慌《ただあわ》ててラムプを持ちて出《い》でぬ。
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