火《ともしび》は見え初《そ》めしが、揺々《ゆらゆら》と町の尽頭《はづれ》を横截《よこぎ》りて失《う》せぬ。再び寒き風は寂《さびし》き星月夜を擅《ほしいまま》に吹くのみなりけり。唯有《とあ》る小路の湯屋は仕舞を急ぎて、廂間《ひあはひ》の下水口より噴出《ふきい》づる湯気は一団の白き雲を舞立てて、心地悪き微温《ぬくもり》の四方に溢《あふ》るるとともに、垢臭《あかくさ》き悪気の盛《さかん》に迸《ほとばし》るに遭《あ》へる綱引の車あり。勢ひで角《かど》より曲り来にければ、避くべき遑無《いとまな》くてその中を駈抜《かけぬ》けたり。
「うむ、臭い」
 車の上に声して行過ぎし跡には、葉巻の吸殻の捨てたるが赤く見えて煙れり。
「もう湯は抜けるのかな」
「へい、松の内は早仕舞でございます」
 車夫のかく答へし後は語《ことば》絶えて、車は驀直《ましぐら》に走れり、紳士は二重外套《にじゆうがいとう》の袖《そで》を犇《ひし》と掻合《かきあは》せて、獺《かはうそ》の衿皮《えりかは》の内に耳より深く面《おもて》を埋《うづ》めたり。灰色の毛皮の敷物の端《はし》を車の後に垂れて、横縞《よこじま》の華麗《はなやか》なる浮
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