《すく》ふ能はずして、今|却《かへ》りて得知らぬ他人に恵みて余有る身の、幾許《いかばかり》幸《さち》無くも又愚なるかを思ひて、謂ふばかり無く悲めるなり。
時に愛子は話を継ぎぬ。貫一は再び耳を傾けつ。
「そんな捫懌《もんちやく》最中に、狭山さんの方が騒擾《さわぎ》に成りましたんで、私の事はまあどうでも、ここに三千円と云ふお金が無い日には、訴へられて懲役に遣られると云ふんですから、私は吃驚《びつくら》して了つて、唯もう途方に昧《く》れて、これは一処に死ぬより外は無いと、その時|直《すぐ》にさう念つたんで御座います。けれども、又考へて、背に腹は替へられないから、これは不如《いつそ》富山に訳を話して、それだけのお金をどうにでも借りるやうに為やうかとも思つて見まして、狭山さんに話しましたところ、俺の身はどうでも、お前の了簡ぢや、富山の処へ行くのが可いか、死ぬのが可いか、とかう申すので御座いませう」
「うむ、大きに」
「私はあんな奴に自由に為れるのはさて置いて、これまでの縁を切るくらゐなら死んだ方が愈《まし》だと、初中終《しよつちゆう》言つてをりますんですから、あんな奴に身を委《まか》せるの、不好《いや》は知れてゐます」
「うむ、さうとも」
「さうなんですけれど金ゆゑで両個《ふたり》が今死ぬのも余《あんま》り悔いから、三千円きつと出すか、出さないか、それは分りませんけれど、もし出したらば出さして、なあに私は那裏《あつち》へ行つたつて、直《ぢき》に迯《に》げて来さへすりや、切れると云ふんぢやなし、少《すこし》の間《ま》不好《いや》な夢を見たと思へば、それでも死ぬよりは愈《まし》だらう、と私はさう申しますと、狭山さんは、それは詐取《かたり》だ……」
「それは詐取《かたり》だ! さうとも」
あだかも我名の出でしままに、男はこれより替りて陳《の》べぬ。
「詐取《かたり》で御座いますとも! 情婦《をんな》を種に詐取を致すよりは、費消《つかひこみ》の方が罪は夐《はるか》に軽う御座います。そんな悪事を働いてまでも活きてゐやうとは、私《わたくし》は決して思ひは致しません。又これに致しましても、あれまで振り通した客に、今と成つて金ゆゑ体を委《まか》せるとは、如何《いか》なる事にも、余《あんま》り意気地が無さ過ぎて、それぢや人間の皮を被《かぶ》つてゐる効《かひ》が御座りませんです。私は金に窮《つま》つて心中なんぞを為た、と人に嗤《わらわ》れましても、情婦《をんな》の体を売つたお陰で、やうやう那奴《あいつ》等は助つてゐるのだ、と一生涯言れますのは不好《いや》で御座います。そんな了簡が出ます程なら、両個《ふたり》の命ぐらゐ助ける方は外に幾多《いくら》も御座いますので。
ここに活きてゐやうと云ふには、どうでもこの上の悪事を為んければ成りませんので、とても死ぬより外は無い! 私は死ぬと覚悟を為たが、お前の了簡はどうか、と実は私が申しましたので」
「成程。そこで貴方が?」
「私は今更富山なんぞにどうしやうと申したのも、究竟《つまり》私ゆゑにそんな訳に成つた狭山さんが、どうにでも助けたいばかりなんで御座いますから、その人が死ぬと言ふのに、私|一箇《ひとり》残つてゐたつて、為様が有りは致しません。貴方が死ぬなら、私も死ぬ――それぢや一処にと約束を致して、ここへ参つたんで御座います」
「いや、善く解りました!」
貫一は宛然《さながら》我が宮の情急《じようきゆう》に、誠壮《まことさかん》に、凛《りん》たるその一念の言《ことば》を、かの当時に聴くらん想して、独《ひと》り自ら胸中の躍々として痛快に堪《た》へざる者あるなり。
正にこれ、垠《はてし》も知らぬ失恋の沙漠《さばく》は、濛々《もうもう》たる眼前に、麗《うるはし》き一望のミレエジは清絶の光を放ちて、甚《はなは》だ饒《ゆたか》に、甚だ明《あきら》かに浮びたりと謂はざらん哉《や》。
彼は幾《ほとん》どこの女の宮ならざるをも忘れて、その七年の憂憤を、今夜の今にして始て少頃《しばらく》も破除《はじよ》するの間《いとま》を得つ。信《まこと》に得難かりしこの間《いとま》こそ、彼が宮を失ひし以来、唯《ただ》これに易《か》へて望みに望みたりし者ならずと為《せ》んや。
嗚呼《ああ》麗《うるはし》きミレエジ!
貫一が久渇《きゆうかつ》の心は激く動《うごか》されぬ。彼は声さへやや震ひて、
「さう申しては失礼か知らんが、貴方の商売柄で、一箇《ひとり》の男を熟《じつ》と守つて、さうしてその人の落目に成つたのも見棄てず、一方には、身請の客を振つてからに、後来《これから》花の咲かうといふ体を、男の為には少しも惜まずに死なうとは、実に天晴《あつぱれ》なもの! 余り見事な貴方のその心掛に感じ入つて、私は……涙が……出ました。
貴方は、どうか
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