生涯その心掛を忘れずにゐて下さい! その心掛は、貴方の宝ですよ。又狭山さんの宝、則《すなは》ち貴下方夫婦の宝なのです!
 今後とも、貴方は狭山さんの為には何日《いつ》でも死んで下さい。何日でも死ぬと云ふ覚悟は、始終きつと持つてゐて下さい。可う御座いますか。
 千万人の中から唯一人見立てて、この人はと念《おも》つた以上は、勿論《もちろん》その人の為には命を捨てるくらゐの了簡が無けりや成らんのです。その覚悟が無いくらゐなら、始から念はん方が可いので、一旦念つたら骨が舎利《しやり》に成らうとも、決して志を変へんと云ふのでなければ、色でも、恋でも、何でもないです! で、若《も》し好いた、惚《ほ》れたと云ふのは上辺《うはべ》ばかりで、その実は移気な、水臭い者とも知らず、這箇《こつち》は一心に成つて思窮《おもひつ》めてゐる者を、いつか寝返《ねがへり》を打れて、突放されるやうな目に遭《あ》つたと為たら、その棄てられた者の心の中は、どんなだと思ひますか」
 彼の声音《こわね》は益す震へり。
「さう云ふのが有ります! 私は世間にはさう云ふのの方が多いと考へる。そんな徒爾《いたづら》な色恋は、為た者の不仕合《ふしあはせ》、棄てた者も、棄てられた者も、互に好《い》い事は無いのです。私は現にさう云ふのを睹《み》てゐる! 睹てゐるから今貴下方がかうして一処に死ぬまでも離れまいと云ふまでに思合つた、その満足はどれ程で、又そのお互の仕合は、実に謂ふに謂はれん程の者であらう、と私は思ふ。
 それに就けても、貴方のその美い心掛、立派な心掛、どうかその宝は一生|肌身《はだみ》に附けて、どんな事が有らうとも、決して失はんやうに為て下さい!――可う御座いますか。さうして、貴下方はお二人とも末長く、です、毎《いつ》も今夜のやうなこの心を持つて、睦《むつまじ》く暮して下さい、私はそれが見たいのです!
 今は死ぬところでない、死ぬには及びません、三千円や四千円の事なら、私がどうでも為て上げます」
 聞訖《ききをは》りし両個《ふたり》が胸の中は、諸共《もろとも》に潮《うしほ》の如きものに襲はれぬ。
 未《ま》だ服さざりし毒の俄《にはか》に変じて、この薬と成れる不思議は、喜ぶとよりは愕《おどろ》かれ、愕くとよりは打惑《うちまど》はれ、惑ふとよりは怪《あやし》まれて、鬼か、神か、人ならば、如何《いか》なる人かと、彼等は覚えず貫一の面《おもて》を見据ゑて、更にその目を窃《ひそか》に合せつ。
 四辺《あたり》も震ふばかりに八声《やこゑ》の鶏《とり》は高く唱《うた》へり。
 夜すがら両個《ふたり》の運星|蔽《おほ》ひし常闇《とこやみ》の雲も晴れんとすらん、隠約《ほのぼの》と隙洩《すきも》る曙《あけぼの》の影は、玉の緒《を》長く座に入りて、光薄るる燈火《ともしび》の下《もと》に並べるままの茶碗の一箇《ひとつ》に、小《ちひさ》き蛾《が》有りて、落ちて浮べり。
[#改頁]


  新 続 金 色 夜 叉


     第 一 章

 生れてより神仏《かみほとけ》を頼み候事《さふらふこと》とては一度も無御座候《ござなくさふら》へども、此度《このたび》ばかりはつくづく一心に祈念致し、吾命《わがいのち》を縮め候代《さふらふかはり》に、必ず此文は御目《おんめ》に触れ候やうにと、それをば力に病中ながら筆取りまゐらせ候。幸《さいはひ》に此の一念通じ候て、ともかくも御披《おんひらか》せ被下候《くだされさふら》はば、此身は直ぐ相果《あひは》て候とも、つゆ憾《うらみ》には不存申候《ぞんじまをさずさふらふ》。元より御憎悪強《おんにくしみつよ》き私《わたくし》には候《さふら》へども、何卒《なにとぞ》是《これ》は前非を悔いて自害いたし候|一箇《ひとり》の愍《あはれ》なる女の、御前様《おんまへさま》を見懸《みか》けての遺言《ゆいごん》とも思召《おぼしめ》し、せめて一通《ひととほ》り御判読《ごはんどく》被下候《くだされさふら》はば、未来までの御情《おんなさけ》と、何より嬉《うれし》う嬉う存上《ぞんじあ》げまゐらせ候。
 扨《さて》とや、先頃に久々とも何とも、御生別《おんいきわかれ》とのみ朝夕《あさゆふ》に諦《あきら》め居《を》り候|御顔《おんかほ》を拝し、飛立つばかりの御懐《おんなつか》しさやら、言ふに謂れぬ悲しさやらに、先立つものは涙にて、十年越し思ひに思ひまゐらせ候事何一つも口には出ず、あれまでには様々の覚悟も致し、また心苦《こころぐるし》き御目《おんめ》もじの恥をも忍び、女の身にてはやうやうの思にて参じ候効《さふらふかひ》も無く、誠に一生の無念に存じまゐらせ候。唯其折《ただそのをり》の形見には、涙の隙《ひま》に拝しまゐらせ候|御姿《おんすがた》のみ、今に目に附き候て旦暮《あけくれ》忘《わす》れやらず、あらぬ人の
前へ 次へ
全177ページ中167ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
尾崎 紅葉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング