《どこ》までも私は剛情を張通して了つたので御座います」
「吁《ああ》! それは貴方が悪いな」
「はい、もう私の善いところは一つでも有るのぢや御座いません。その事に就きまして、主人に書置《かきおき》も致しましたやうな次第で、既に覚悟を極《きは》めました際《きは》まで、心懸《こころがかり》と申すのは、唯そればかりなので御座いました。
で又その最中にこれの方の身請騒《みうけさわぎ》が起りましたので」
「成程!」
「これの母親と申すのは養母で御座いまして、私も毎々話を聞いてをりますが、随分それは非道な強慾な者で御座います。まあ悉《くはし》く申上げれば、長いお話も御座いますが、これも娘と申すのは名のみで、年季で置いた抱《かかへ》も同様の取扱《とりあつかひ》を致して、為て遣る事は為ないのが徳、稼《かせ》げるだけ稼がせないのは損だと云つたやうな了簡《りようけん》で、長い間無理な勤を為《さ》せまして、散々に搾《しぼ》り取つたので御座います。
で、私の有る事も知つてはをりましたが、近頃私が追々廻らなく成つて参つたところから、さあ聒《やかまし》く言出しまして、毎日のやうに切れろ切れろで責め抜いてをります際に、今の身請の客が附いたので御座います。丁度去年の正月頃から来出した客で、下谷《したや》に富山銀行といふのが御座います、あれの取締役で」
「え!? 何……何……何ですか!」
「御承知で御座いますか、あの富山|唯継《ただつぐ》と云ふ……」
「富山? 唯継!」
その面色、その声音《こわね》! 彼は言下《ごんか》に皷怒《こど》して、その名に躍《をど》り被《かか》らんとする勢《いきほひ》を示せば、愛子は駭《おどろ》き、狭山は懼《おそ》れて、何事とも知らず狼狽《うろた》へたり。貫一は轟く胸を推鎮《おししづ》めても、なほ眼色《まなざし》の燃ゆるが如きを、両個《ふたり》が顔に忙《せはし》く注ぎて、
「その富山唯継が身請の客ですか」
「はい、さやうで御座いますが、貴方は御存じでゐらつしやいますので?」
「知つてゐます! 好く……知つてゐます!」
狭山の打惑《うちまど》ふ傍《そば》に、女は密《ひそか》に驚く声を放てり。
「那奴《あいつ》が身請の?」
問はるる愛子は、会釈して、
「はい、さやうなんで御座います」
「で、貴方は彼に退《ひ》かされるのを嫌《きら》つたのですな」
「はい」
「さうすると、去年の始から貴方はあれの世話に成つてをつたのですか」
「私はあんな人の世話なんぞには成りは致しません!」
「はあ? さうですか。世話に成つてゐたのぢやないのですか」
「いいえ、貴方。唯お座敷で始終呼れますばかりで」
「ああ、さうですか! それぢや旦那《だんな》に取つてをつたと云ふ訳ぢやないのですか」
女は聞くも穢《けがらは》しと、さすが謂ふには謂れぬ尻目遣《しりめづかひ》して、
「私には、さう云ふ事が出来ませんので、今までついにお客なんぞを取つた事は、全然《まるつきり》無いんで御座います」
「ああ、さうですか! うむ、成程……成程な……解りました、好く解りました」
狭山は俯《うつむ》きゐたり。
「それではかう云ふのですな、貴方は勤《つとめ》を為てをつても、外の客には出ずに、この人|一個《ひとり》を守つて――さうですね」
「さやうです」
「さうして、余所《よそ》の身請を辞《ことわ》つて――富山唯継を振つたのだ! さうですな」
「はい」
※[#「※」は「倏」の「犬」の代わりに「火」、450−14]忽《たちまち》に瞳《ひとみ》を凝《こら》せる貫一は、愛子の面《おもて》を熟視して止《や》まざりしが、やがてその眼《まなこ》の中に浮びて、輝くと見れば霑《うるほ》ひて出づるものあり。
「嗚呼《ああ》……感心しました! 実に立派な者です! 貴方は命を捨てても……この人と……添ひたいのですか!」
何の故《ゆゑ》とも分かず彼の男泣に泣くを見て、両個《ふたり》は空《むなし》く呆《あき》るるのみ。
貫一が涙なるか。彼はこの色を売るの一匹婦《いつひつぷ》も、知らず誰《たれ》か爾《なんぢ》に教へて、死に抵《いた》るまで尚《なほ》この頼《よ》り難《がた》き義に頼《よ》り、守り難《かた》き節を守りて、終《つひ》に奪はれざる者あるに泣けるなり。
其の泣く所以《ゆゑん》なるか。彼はこの人の世に、さばかり清く新くも、崇《たふと》く優くも、高く麗《うるはし》くも、又は、完《まつた》くも大いなる者在るを信ぜざらんと為るばかりに、一度《ひとたび》は目前《まのあたり》睹《み》るを得て、その倒懸の苦を寛《ゆる》うせん、と心|※[#「※」は「くさかんむり+熱」、451−6]《や》くが如く望みたりしを、今却りて浮萍《うきくさ》の底に沈める泥中の光に値《あ》へる卒爾《そつじ》の歓極《よろこびきは》まれれば
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