せるを伺ひ知りし貫一は、例の益《ますま》す人目を避《さく》るならんよと念《おも》へり。
 還り来《き》て多時《しばらく》酒など酌交《くみかは》す様子なりしが、高声一つ立つるにもあらで、唯障子を照す燈《ともし》のみいと瞭《さやか》に、内の寂しさは露をも置きけんやうにて、さてはかの吹絶えぬ松風に、彼等は竟《つひ》に酔《ゑひ》を成さざるならんと覚ゆばかりなりき。
 為《な》す事もあらねば、貫一は疾《と》く臥内《ふしど》に入りけるが、僅《わづか》に※[#「※」は「目+毛」、433−8]《まどろ》むと為れば直《ぢき》に、寤《さ》めて、そのままに睡《ねむり》は失《うす》るとともに、様々の事思ひゐたり。
 夜の静なるを動かして、かの男女《なんによ》の細語《ひそめき》は洩《も》れ来《き》ぬ。甚《はなは》だ幺微《かすか》なれば聞知るべくもあらねど、※[#「※」は「女+尾」、433−11]々《びび》として絶えず枕に打響きては、なかなか大いなる声にも増して耳煩《みみわづら》はしかり。
 さなきだに寝難《いねがた》かりし貫一は、益す気の澄み、心の冱《さ》え行くに任せて、又|徒《いたづら》にとやかくと、彼等の身上《みのうへ》を推測《おしはか》り推測り思回《おもひめぐ》らすの外はあらず。彼方《あなた》もその幺微《かすか》なる声に語り語りて休《や》まざるは、思の丈《たけ》の短夜《たんや》に余らんとするなるか。
 乍《たちま》ち有りて、迸《ほとばし》れるやうにその声はつと高く揚れり。貫一は愕然《がくぜん》として枕を欹《そばだ》てつ。女は遽《にはか》に泣出《なきいだ》せるなり。
 その時男の声音《こわね》は全く聞えずして、唯|独《ひと》り女の縦《ほしいま》まに泣音《なくね》を洩《もら》すのみなる。寤めたる貫一は弥《いや》が上に寤めて、自ら故《ゆゑ》を知らざる胸を轟《とどろか》せり。
 少焉《しばし》泣きたりし女の声は漸《やうや》く鎮りて、又|湿《しめ》り勝《がち》にも語り初《そ》めしが、一たび情《じよう》の為に激せし声音は、自《おのづ》から始よりは高く響けり。されどなほその言ふところは聞知り難くて、男の声は却《かへ》りて前《さき》よりも仄《ほのか》なり。
 貫一は咳《しはぶ》きも遣らで耳を澄せり。
 或《あるひ》は時に断ゆれども、又|続《つ》ぎ、又続ぎて、彼等の物語は蚕《かひこ》の糸を吐きて倦《う》まざらんやうに、限も知らず長く亘《わた》りぬ。げにこの積る話を聞きも聞せもせんが為に、彼等はここに来つるにやあらん。されども、日は明日《あす》も明後日《あさつて》も有るを、甚《はなは》だ忙《せはし》くも語るもの哉《かな》。さばかり間遠《まどほ》なりし逢瀬《あふせ》なるか、言はでは裂けぬる胸の内か、かく有らでは慊《あきた》らぬ恋中《こひなか》か、など思ふに就けて、彼はさすがに我身の今昔《こんじやく》に感無き能はず、枕を引入れ、夜着《よぎ》引被《ひきかつ》ぎて、寐返《ねがへ》りたり。
 何時罷《いつや》みしとも覚えで、彼等の寐物語は漸く絶えぬ。
 貫一も遂に短き夢を結びて、常よりは蚤《はや》かりけれど、目覚めしままに起出《おきい》でし朝冷《あさびえ》を、走り行きて推啓《おしあ》けつる湯殿の内に、人は在らじと想ひし眼《まなこ》を驚《おどろか》して、かの男女《なんによ》は浴《ゆあみ》しゐたり。
 貫一ははたと閉《とざ》して急ぎ返りつ。

     第 四 章

 両箇《ふたり》はやや熱かりしその日も垂籠《たれこ》めて夕《ゆふべ》に抵《いた》りぬ。むづかしげに暮山《ぼさん》を繞《めぐ》りし雲は、果して雨と成りて、冷々《ひやひや》と密下《そぼふ》るほどに、宵の燈火《ともしび》も影|更《ふ》けて、壁に映《うつろ》ふ物の形皆寂く、憖《なまじ》ひに起きて在るべき夜頃《よごろ》ならず。さては貫一も枕《まくら》に就きたり。
 ラムプを細めたる彼等の座敷も甚《はなは》だ静に、宿の者さへ寐急《ねいそ》ぎて後十一時は鳴りぬ。
 凄《すさまじ》き谷川の響に紛れつつ、小歇《をやみ》もせざる雨の音の中に、かの病憊《やみつか》れたるやうの柱時計は、息も絶気《たゆげ》に半夜を告げわたる時、両箇《ふたり》が閨《ねや》の燈《ともし》は乍《たちま》ち明《あきら》かに耀《かがや》けるなり。
 彼等は倶《とも》に起出でて火鉢《ひばち》の前に在り。
「膳《ぜん》を持つて来ないか」
「ええ」
 女は幺微《かすか》なる声して答へけれど、打萎《うちしを》れて、なかなか立ちも遣《や》らず。
「狭山さん、私《わたし》は何だか貴方《あなた》に言残した事が未《ま》だ有るやうな心持がして……」
「吁《ああ》、もうかう成つちやお互に何も言はないが可《い》い。言へばやつぱり未練が出る」
 彼は熟《じ》と内向《うつむ》きて、目を閉ぢたり
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