舎《ゐなか》へ行つて了ふと云ふのを、それは心細がつて、力を落したの何のと云つたら、私も別れるのが気の毒に成るくらゐで、先へ落付いたら、どうぞ一番に住所《ところ》を知せてくれ、初中終《しよつちゆう》旅を出行《である》いてゐる体だから、直《ぢき》に御機嫌伺《ごきげんうかが》ひに出ると、その事をあんなに懇々《くれぐれ》も頼んでゐましたから、後で聞いたら、さぞ吃驚《びつくり》して……きつと疾《わづら》ひでも為るでせうよ。考へて見りや、丹子も可愛《かはい》し、あの阿母さんも怜《いとし》いし。吁《ああ》、吁!」
歔欷《すすりなき》して彼は悶《もだ》えつ。
「さう云ふ訳ぢや、猶更《なほさら》内ぢや大騒をして捜してゐる事だらう」
「大変でせうよ」
「それだと余《あんま》り遅々《ぐづぐづ》しちやゐられないのだ」
「どうで、狭山さん、先は知れてゐ……」
「さうだ」
「だからねえ、もう早い方が可ござんすよ」
女は咽《むせ》びて其処《そこ》に泣伏しぬ。狭山は涙を連※[#「※」は「目+荅」、431−4]《しばたた》きて、
「お静、おい、お静や」
「あ……あい。狭山さん!」
憐《あはれ》むべし、情極《じようきはま》りて彼等の相擁《あひよう》するは、畢竟《ひつきよう》尽きせぬ哀歎《なげき》を抱《いだ》くが如き者ならんをや。
(三) の 二
両箇《ふたり》は此方《こなた》にかつ泣きかつ語れる間、彼方《あなた》の一箇《ひとり》は徒然《つれづれ》の柱に倚《よ》りて、やうやう傾く日影に照されゐたり。
その待人の如何《いか》なる者なるかを見て、疑は決すべしと為せし貫一も、かの伴ひ還りし女を見るに※[#「※」は「しんにょう+台」、431−13]《およ》びて、その疑はいよいよ錯雑して、しかも新なる怪訝《あやしみ》の添はるのみなり。
如何《いか》なればや、女の顔色も甚《はなは》だ勝《すぐ》れず、その点の男といと善く似たるは、同じ憂を分つにあらざる無からんや。我聞く、犯罪の底には必ず女有りと、若《も》し信《まこと》なりとせば、彼は正《まさし》く彼女《かのをんな》ゆゑに如何《いか》なる罪をも犯せるならんよ。その罪の故《ゆゑ》に男は苦み、その苦の故に女は憂ふると為《せ》ば、彼等は誠に相愛《あひあい》するの堅き者ならず哉《や》。
知らず、彼等は何《なに》の故に相率《あひひきゐ》てこの人目|稀《まれ》なる山中《やまなか》には来《きた》れる。その罪を※[#「※」は「しんにょう+官」、432−1]《のが》れんが為か、その苦と憂とを忘れんが為か、或《あるひ》はその愛を全うせんが為か、明《あきらか》に彼等は夫婦ならず、又は、女の芸者風なるも、決して尋常の隠遊《かくれあそび》にあらずして、自《おのづ》から穂に露《あらは》るるところ有り。さては何等《なにら》の密会ならん。
貫一は彼を以《も》て女を偸《ぬす》みて奔《はし》る者ならずや、と先《まづ》推《すい》しつつ、尚《な》ほ如何にやなど、飽かず疑へる間より、忽《たちま》ち一片の反映は閃《きらめ》きて、朧《おぼろ》にも彼の胸の黯《くら》きを照せり。
彼はこの際熱海の旧夢を憶《おも》はざるを得ざりしなり。
世上貫一の外《ほか》に愛する者無かりし宮は、その貫一と奔るを諾《うべな》はずして、僅《わづか》に一|瞥《べつ》の富の前に、百年の契を蹂躙《ふみにじ》りて吝《をし》まざりき。噫《ああ》我が当時の恨、彼が今日《こんにち》の悔! 今|彼女《かのをんな》は日夜に栄の衒《てら》ひ、利の誘《いざな》ふ間に立ち、守るに難き節を全うして、世の容《い》れざる愛に随《したが》つて奔らんと為るか。
爾思《しかおも》へる後の彼は、陰《ひそか》にかの両個《ふたり》の先に疑ひし如き可忌《いまはし》き罪人ならで、潔く愛の為に奔る者たらんを、祷《いの》るばかりに冀《こひねが》へり。若しさもあらば、彼は具《つぶさ》に彼等の苦き身の上と切なる志とを聴かんと念《おも》ひぬ。
心永く痍《きずつ》きて恋に敗れたる貫一は、殊更《ことさら》に他の成敗に就いて観《み》るを欲せるなり。彼は己《おのれ》の不幸の幾許《いかばかり》不幸に、人の幸《さち》の幾許幸ならんかを想ひて、又己の失敗の幾許無残に、人の成効の幾許十分ならんかを想ひて、又己の契の幾許薄く、人の縁《えにし》の幾許深からんかを想ひて、又己の受けし愛の幾許浅く、人の交《かは》せる情《なさけ》の幾許篤からんかを想ひて、又己の恋の障碍《さまたげ》の幾許強く、人の容れられぬ世の幾許狭からんかを想ひて。嗟呼《ああ》、既に己の恋は敗れに破れたり。知るべからざる人の恋の末終《つひ》に如何《いか》ならんかを想ひて。
昼間の程は勗《つと》めて籠《こも》りゐしかの両個《ふたり》の、夜に入りて後|打連《うちつ》れて入浴
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