「貴方、その指環を私のと取替事《とりかへつこ》して下さいね」
「さうか」
 各《おのおの》その手に在るを抜きて、男は実印用のを女の指に、女はダイアモンド入のを男の指に、※[#「※」は「てへん+(鐶−金)」、436−2]《さ》し了《をは》りてもなほ離れかねつつ、物は得言はでゐたり。
 颯《さ》と鳴りて雨は一時《ひとしきり》繁《しげ》く灑《そそ》ぎ来《きた》れり。
「ああ、大相降つて来た」
「貴方は不断から雨が所好《すき》だつたから、きつとそれで……暇《いとま》……乞《ごひ》に降つて来たんですよ」
「好い折だ。あの雨を肴《さかな》に……お静、もう覚悟を為ろよ!」
「あ……あい。狭山さん、それぢや私も……覚……悟したわ」
「酒を持つて来な」
「あい」
 お静も今は心を励して、宵の程|誂《あつら》へ置きし酒肴《しゆこう》の床間《とこのま》に上げたるを持来《もてき》て、両箇《ふたり》が中に膳を据れば、男は手早く燗《かん》して、その間《ま》に各《おのおの》服を更《あらた》むる忙《せは》しさは、忽《たちま》ち衣《きぬ》の擦《す》り、帯の鳴る音高く※[#「※」は「糸+卒」、436−12]※[#「※」は「糸+察」、436−13]《さやさや》と乱れ合ひて、転《うた》た雨|濃《こまやか》なる深夜を驚《おどろ》かせり。
「ええ、もう好《す》かない!」
 帯緊《おびし》めながら女はその端《はし》を振りて身悶《みもだえ》せるなり。
「どうしたのだ」
「なあにね、帯がこんなに結《むす》ばつて了つて」
「帯が結ばつた?」
「ああ! あなた釈《と》いて下さい、よう」
「何か吉《い》い事が有るのだ」
「私はもしも遣損《やりそこな》つて、耻《はぢ》でも曝《さら》すやうな事が有つちやと、それが苦労に成つて耐《たま》らなかつたんだから、これでもう可いわ」
「それは大丈夫だから安心するが可い。けれど、もしもだ、お静、そんな事は無いとは念ふけれど、運悪く遅れたら、俺《おれ》はきつと後から往くから――どんなにしても往くから、恨まずに待つてゐてくれ。よ、可……可いか」
 つと俯《ふ》したるお静は、男の膝を咬《か》みて泣きぬ。
「その代り、偶《ひよつ》としてお前が後になるやうだつたら、俺は死んでも……魂《たましひ》はおまへの陰身《かげみ》を離れないから、必ず心変《こころがはり》を……す、するなよ、お静」
「そんな事を言はないで、一処に……連れて……往つて……下さいよ」
「一処に往くとも!」
「一処に! 一処に往きますよ!」
「さあ、それぢやこ、この世の……別に一盃《いつぱい》飲むのだ。もう泣くな、お静」
「泣、泣かない」
「さあ、那裏《あすこ》へ行つて飲まう」
 男は先づ起ちて、女の手を把《と》れば、女はその手に縋《すが》りつつ、泣く泣く火鉢の傍《そば》に座を移しても、なほ離難《はなれがた》なに寄添ひゐたり。
「猪口《ちよく》でなしに、その湯呑《ゆのみ》に為やう」
「さう。ぢや半分づつ」
 熱燗《あつがん》の酒は烈々《れつれつ》と薫《くん》じて、お静が顫《ふる》ふ手元より狭山が顫ふ湯呑に注がれぬ。
 女の最も悲かりしは、げにこの刹那《せつな》の思なり。彼は人の為に酒を佐《たすく》るに嫻《なら》ひし手も、などや今宵の恋の命も、儚《はかな》き夢か、うたかたの水盃《みづさかづき》のみづからに、酌取らんとは想の外の外なりしを、唄《うた》にも似たる身の上|哉《かな》と、漫《そぞろ》に逼《せま》る胸の内、何に譬《たと》へん方《かた》もあらず。
 男は燗の過ぎたるに口を着けかねて、少時《しばし》手にせるままに眺《なが》めゐれば、よし今は憂くも苦くも、久《ひさし》く住慣れしこの世を去りて、永く返らざらんとする身には、僅《わづか》に一盃《いつぱい》の酒に対するも、又|哀別離苦《あいべつりく》の感無き能はざるなり。
 念《おも》へ、彼等の逢初《あひそ》めし夕《ゆふべ》、互に意《こころ》有りて銜《ふく》みしもこの酒ならずや。更に両個《ふたり》の影に伴ひて、人の情《なさけ》の必ず濃《こまやか》なれば、必ず芳《かうばし》かりしもこの酒ならずや。その恋中の楽《たのしみ》を添へて、三歳《みとせ》の憂《うさ》を霽《はら》せしもこの酒ならずや。彼はその酒を取りて、吉《よ》き事積りし後の凶の凶なる今夜の末期《まつご》に酬《むく》ゆるの、可哀《あはれ》に余り、可悲《かなし》きに過《すぐ》るを観じては、口にこそ言はざりけれど、玉成す涙は点々《ほろほろ》と散りて零《こぼ》れぬ。
「おまへの酌で飲むのも……今夜きりだ」
「狭山さん、私はこんなに苦労を為て置きながら、到頭一日でも……貴方と一処に成れずに、芸者|風情《ふぜい》で死んで了ふのが……悔《くやし》い、私は!」
 聞くも苦しと、男は一息に湯呑の半《なかば》を呷《
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