おつけ》をお易《か》へ申して来ないか」
 主《あるじ》の辞し去りて後、貫一は彼の所謂《いはゆる》何も無き[#「何も無き」に傍点]、椀《わん》も皿も皆黄なる鶏子一色《たまごいつしき》の膳に向へり。
「内にはお客は今|幾箇《いくたり》有るのだね」
「這箇《こちら》の外にお一方《ひとかた》で御座りやす」
「一箇《ひとり》? あのお客は単身《ひとり》なのか」
「はい」
「先《さつき》に湯殿で些《ちよつ》と遇《あ》つたが、男の客だよ」
「さよで御座りやす」
「あれは病人だね」
「どうで御座りやすか。――そんな事|無《ね》えで御座りやせう」
「さうかい。何処《どこ》も不良《わる》いところは無いやうかね」
「無《ね》えやうで御座りやすな」
「どうも病人のやうだが、さうでないかな」
「ああ、旦那様はお医者様で御座りやすか」
 貫一は覚えず噴飯《ふんぱん》せんと為つつ、
「成程、好い事を言ふな。俺は医者ぢやないけれど、どうも見たところが病人のやうだから、さうぢやないかと思つたのだ。もう長く来てゐるお客か」
「いんえ、昨日《きのふ》お出《いで》になりやしたので」
「昨日来たのだ? 東京の人か」
「はい、日本橋の方のお方で御座りやす」
「それぢや商人《あきんど》か」
「私能く知りやせん」
「どうだ、お前達と懇意にして話をするか」
「そりやなさりやす」
「俺と那箇《どつち》が為る」
「旦那様とですけ? そりや旦那様のやうにはなさりやせん」
「うむ、さうすると、俺の方がお饒舌《しやべり》なのだな」
「あれ、さよぢや御座りやせんけれど、那裏《あちら》のお客様は黙つてゐらつしやる方が多う御座りやす。さうして何でもお連様《つれさま》が直《ぢき》にいらしやる筈《はず》で、それを、まあ酷《えら》う待つてお在《いで》なさりやす」
「おお、伴《つれ》が後から来るのか。いや、大きに御馳走《ごちそう》だつた」
「何も御座りやせんで、お麁末様《そまつさま》で御座りやす」
 婢《をんな》は膳を引きて起ちぬ。貫一は顛然《ころり》と臥《ね》たり。
 二十間も座敷の数有る大構《おほがまへ》の内に、唯二人の客を宿せるだに、寂寥《さびしさ》は既に余んぬるを、この深山幽谷の暗夜に蔽《おほは》れたる孤村の片辺《かたほとり》に倚《よ》れる清琴楼の間毎に亘《わた》る長廊下は、星の下行く町の小路より、幾許《いかばかり》心細くも可恐《おそろし》き夜道ならんよ。戸一重外《とひとへそと》には、山颪《やまおろし》の絶えずおどろおどろと吹廻《ふきめぐ》りて、早瀬の波の高鳴《たかなり》は、真に放鬼の名をも懐《おも》ふばかり。
 折しも唾壺《はひふき》打つ音は、二間《ふたま》ばかりを隔てて甚だ蕭索《しめやか》に聞えぬ。
 貫一は何《なに》の故《ゆゑ》とも知らで、その念頭を得放れざるかの客の身の上をば、独り様々に案じ入りつつ、彼既に病客ならず、又我が識《し》る人ならずと為《せ》ば、何を以つて人を懼《おそ》るる態《かたち》を作《な》すならん。抑《そもそ》も彼は何者なりや。又何の尤《とが》むるところ有りて、さばかり人を懼るるや。
 貫一はこの秘密の鑰《かぎ》を獲んとして、左往右返《とさまかうさま》に暗中|摸索《もさく》の思《おもひ》を費すなりき。

     (二) の 二

 明《あく》る朝《あした》の食後、貫一は先《ま》づこの狭き畑下戸《はたおり》の隅々《すみずみ》まで一遍《ひとわたり》見周《みめぐ》りて、略《ほ》ぼその状況を知るとともに、清琴楼の家格《いへがら》を考へなどして、磧《かはら》に出づれば、浅瀬に架《かか》れる板橋の風情《ふぜい》面白く、渡れば喜十六の山麓《さんろく》にて、十町ばかり登りて須巻《すまき》の滝《たき》の湯有りと教へらるるままに、遂《つひ》に其処《そこ》まで往きて、午《ひる》近き頃宿に帰りぬ。
 汗を流さんと風呂場に急ぐ廊下の交互《すれちがひ》に、貫一はあたかもかの客の湯上りに出会へり。こたびも彼は面《おもて》を見せじとやうに、慌忙《あわただし》く打背《うちそむ》きて過行くなり。
 今は疑ふべくもあらず、彼は正《まさし》く人目を避けんと為るなり。則《すなは》ち人を懼るるなり。故は、自ら尤《とがむ》るなり。彼は果して何者ならん、と貫一は愈《いよい》よ深く怪みぬ。
 昨日《きのふ》こそ誰乎彼《たそがれ》の黯※[#「※」は「黯−音+甚」、413−16]《くらがり》にて、分明《さやか》に面貌《かほかたち》を弁ぜざりしが、今の一目は、躬《みづから》も奇なりと思ふばかり奇《くし》くも、彼の不用意の間《うち》に速写機の如き力を以てして、その映じ来《きた》りし形を総《すべ》て脱《のが》さず捉《とら》へ得たりしなり。
 貫一はその相貌《そうぼう》の瞥見《べつけん》に縁《よ》りて、直《ただ》ちに彼の性質を
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