》が強くて、頭痛がして成らんから」
「さやうで御座いますか。唯今|直《ぢき》に片付けますです。これは唯《たつた》一つ早咲《はやざき》で、珍《めづらし》う御座いましたもんですから、先程折つてまゐつて、徒《いたづら》に挿して置いたんで御座います」
「うう、成程、早咲だね」
「さやうで御座います。来月あたりに成りませんと、余り咲きませんので、これが唯《たつた》一つ有りましたんで、紛《まぐ》れ咲《ざき》なので御座いますね」
「うう紛れ咲、さうだね」
「御案内致しませう」
風呂場に入《い》れば、一箇《ひとり》の客|先《まづ》在りて、未《ま》だ燈点《ひとも》さぬ微黯《うすくらがり》の湯槽《ゆぶね》に漬《ひた》りけるが、何様人の来《きた》るに駭《おどろ》けると覚《おぼし》く、甚《はなは》だ忙《せは》しげに身を起しつ。貫一が入れば、直《ぢき》に上ると斉《ひとし》く洗塲《ながし》の片隅《かたすみ》に寄りて、色白き背《そびら》を此方《こなた》に向けたり。
年紀《としのころ》は二十七八なるべきか。やや孱弱《かよわ》なる短躯《こづくり》の男なり。頻《しきり》に左視右胆《とみかうみ》すれども、明々地《あからさま》ならぬ面貌《おもて》は定《さだ》かに認め難かり。されども、自《おのづか》ら見識越《みしりごし》ならぬは明《あきらか》なるに、何が故《ゆゑ》に人目を避《さく》るが如き態《かたち》を作《な》すならん。華車《きやしや》なる形成《かたちづくり》は、ここ等辺《らあたり》の人にあらず、何人《なにびと》にして、何が故になど、貫一は徒《いたづら》に心牽《こころひか》れてゐたり。
やがて彼が出づれば、待ちけるやうに男は入替りて、なほ飽くまで此方《こなた》を向かざらんと為つつ、蕭索《しめやか》に浴《ゆ》を行《つか》ふ音を立つるのみ。
その膚《はだ》の色の男に似気無《にげな》く白きも、その骨纖《ほねほそ》に肉の痩《や》せたるも、又はその挙動《ふるまひ》の打湿《うちしめ》りたるも、その人を懼《おそ》るる気色《けしき》なるも、総《すべ》て自《おのづか》ら尋常《ただ》ならざるは、察するに精神病者の類《たぐひ》なるべし。さては何の怪むところ有らん。節は初夏の未《ま》だ寒き、この寥々《りようりよう》たる山中に来《きた》り宿《とま》れる客なれば、保養鬱散の為ならずして、湯治の目的なるを思ふべし。誠にさなり、彼は病客なるべきをと心釈《こころと》けては、はや目も遣らずなりける間《ひま》に、男は浴《ゆあ》み果てて、貸浴衣《かしゆかた》引絡《ひきまと》ひつつ出で行きけり。
暮色はいよいよ濃《こまやか》に、転激《うたたはげし》き川音の寒さを添ふれど、手寡《てずくな》なればや燈《あかり》も持|来《きた》らず、湯香《ゆのか》高く蒸騰《むしのぼ》る煙《けむり》の中に、独《ひと》り影暗く蹲《うづくま》るも、少《すこし》く凄《すさまじ》き心地して、程無く貫一も出でて座敷に返れば、床間《とこのま》には百合の花も在らず煌々《こうこう》たる燈火《ともしび》の下に座を設け、膳《ぜん》を据ゑて傍《かたはら》に手焙《てあぶり》を置き、茶器|食籠《じきろう》など取揃《とりそろ》へて、この一目さすがに旅の労《つかれ》を忘るべし。
先づ衣桁《いこう》に在りける褞袍《どてら》を被《かつ》ぎ、夕冷《ゆふびえ》の火も恋《こひし》く引寄せて莨《たばこ》を吃《ふか》しゐれば、天地|静《しづか》に石走《いはばし》る水の響、梢《こずゑ》を渡る風の声、颯々淙々《さつさつそうそう》と鳴りて、幽なること太古の如し。
乍《たちま》ちはたはたと跫音《あしおと》長く廊下に曳《ひ》いて、先のにはあらぬ小婢《こをんな》の夕餉《ゆふげ》を運び来《きた》れるに引添ひて、其処《そこ》に出でたる宿の主《あるじ》は、
「今日《こんにち》は好《よ》うこそ御越《おこ》し下さいまして、さぞ御労様《おつかれさま》でゐらつしやいませうで御座ります。ええ、又唯今程は格別に御茶料を下《くだ》し置れまして、甚《はなは》だ恐入りました儀で、難有《ありがた》う存じまして、厚く御礼を申上げまするで御座います。
ええ前以《ぜんもつ》てお詑《わび》を申上げ置きまするのは、召上り物のところで御座りまして一向はや御覧の通何も御座りませんで、誠に相済みません儀で御座いまするが、実は、未だ些《ちよつ》と時候もお早いので、自然お客様のお越《こし》も御座りませんゆゑ、何分用意|等《とう》も致し置きませんやうな次第で、然し、一両日《いちりようにち》中にはお麁末《そまつ》ながら何ぞ差上げまするやうに取計ひまするで御座いますで、どうぞ、まあ今明日《こんみようにち》のところは御勘弁を下さいまして、御寛《ごゆるり》と御逗留《ごとうりゆう》下さいまするやうに。――これ、早う御味噌汁《おみ
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