東北は山又山を重ねて、琅※[#「※」は「王+干」、406−9]《ろうかん》の玉簾《ぎよくれん》深く夏日の畏《おそ》るべきを遮《さへぎ》りたれば、四面|遊目《ゆうもく》に足りて丘壑《きゆうかく》の富を擅《ほしいまま》にし、林泉の奢《おごり》を窮《きは》め、又有るまじき清福自在の別境なり。
 貫一はこの絵を看《み》る如き清穏《せいおん》の風景に値《あ》ひて、かの途上《みちすがら》険《けはし》き巌《いはほ》と峻《さかし》き流との為に幾度《いくたび》か魂《こん》飛び肉銷《にくしよう》して、理《をさ》むる方《かた》無く掻乱《かきみだ》されし胸の内は靄然《あいぜん》として頓《とみ》に和《やはら》ぎ、恍然《こうぜん》として総《すべ》て忘れたり。
 彼は以為《おもへ》らく。
 誠に好くこそ我は来《き》つれ! なんぞ来《きた》るの甚《はなは》だ遅かりし。山の麗《うるは》しと謂《い》ふも、壌《つち》の堆《うづたか》き者のみ、川の暢《のどけ》しと謂ふも、水の逝《ゆ》くに過ぎざるを、牢《ろう》として抜く可からざる我が半生の痼疾《こしつ》は、争《いか》で壌《つち》と水との医《い》すべき者ならん、と歯牙《しが》にも掛けず侮《あなど》りたりし己《おのれ》こそ、先づ侮らるべき愚《おろか》の者ならずや。
 看《み》よ、看よ、木々の緑も、浮べる雲も、秀《ひいづ》る峰も、流るる渓《たに》も、峙《そばだ》つ巌《いはほ》も、吹来《ふきく》る風も、日の光も、鶏《とり》の鳴く音《ね》も、空の色も、皆|自《おのづか》ら浮世の物ならで、我はここに憂《うれひ》を忘れ、悲《かなしみ》を忘れ、苦《くるしみ》を忘れ、労《つかれ》を忘れて、身はかの雲と軽く、心は水と淡く、希《こひねが》はくは今より如此《かくのごと》くして我生を了《をは》らん哉《かな》。
 恋も有らず、怨《うらみ》も有らず、金銭《ぜに》も有らず、権勢も有らず、名誉も有らず、野心も有らず、栄達も有らず、堕落も有らず、競争も有らず、執着も有らず、得意も有らず、失望も有らず、止《た》だ天然の無垢《むく》にして、形骸《けいがい》を安きのみなるこの里、我思《わがおもひ》を埋《うづ》むるの里か、吾骨を埋るの里か。
 性来多く山水の美に親《したし》まざりし貫一は、殊《こと》に心の往くところを知らざるばかりに愛《め》で悦《よろこ》びて、清琴楼の二階座敷に案内《あない》されたれど、内には入《い》らで、始より滝に向へる欄干《らんかん》に倚《よ》りて、偶《たまた》ま人中を迷ひたりし子の母の親にも逢《あ》ひけんやうに、少時《しばし》はその傍《かたはら》を離れ得ざるなりき。
 楼前の緑は漸《やうや》く暗く、遠近《をちこち》の水音|冱《さ》えて、はや夕暮《ゆふく》るる山風の身に沁《し》めば、先づ湯浴《ゆあみ》などせばやと、何気無く座敷に入りたる彼の眼《まなこ》を、又|一個《ひとつ》驚かす物こそあれ。
 鞄《かばん》を置いたる床間《とこのま》に、山百合《やまゆり》の花のいと大きなるを唯《ただ》一輪|棒挿《ぼうざし》に活《い》けたるが、茎形《くきなり》に曲《くね》り傾きて、あたかも此方《こなた》に向へるなり。
 貫一は覚えず足を踏止めて、その※[#「※」は「目+登」、407−14]《みは》れる眼《まなこ》を花に注ぎつ。宮ははやここに居たりとやうに、彼は卒爾《そつじ》の感に衝《つか》れたるなり。
 既に幾処《いくところ》の実景の夢と符合するさへ有るに、またその殊に夢の夢なる一本《ひともと》百合のここに在る事、畢竟《ひつきょう》偶合に過ぎずとは謂へ、さりとては余りにかの夢とこの旅との照応急に、因縁深きに似て、などかくは我を驚かすの太甚《はなはだし》き!
 奇を弄《ろう》して益《ますます》出づる不思議に、彼は益|懼《おそれ》を作《な》して、或《あるひ》はこの裏《うち》に天意の測り難き者有るなからんや、とさすがに惑ひ苦めり。
 やがて傍近《そばちか》く寄りて、幾許《いかばかり》似たると眺《なが》むれば、打披《うちひら》ける葩《はなびら》は凛《りん》として玉を割《さ》いたる如く、濃香|芬々《ふんふん》と迸《ほとばし》り、葉色に露気《ろき》有りて緑鮮《みどりあざやか》に、定《さだめ》て今朝《けさ》や剪《き》りけんと覚《おぼし》き花の勢《いきほひ》なり。
 少《しばら》く楽まされし貫一も、これが為に興冷《きようさ》めて、俄《にはか》に重き頭《かしら》を花の前に支へつつ、又かの愁《うれひ》を徐々に喚起《よびおこ》さんと為つ。
「お風呂へ御案内申しませう」
 その声に彼は婢《をんな》を見返りて、
「ああ、姐《ねえ》さん、この花を那裏《そつち》へ持つて行つておくれでないか」
「はあ、その花で御座いますか。旦那《だんな》様は百合の花はお嫌《きら》ひで?」
「いや、匂《にほひ
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