るので御座います。其処《そこ》をお考へ遊ばしたら、如何《いか》に好かん奴であらうとも、雫《しづく》ぐらゐの情《なさけ》は懸けて遣《や》らう、と御不承が出来さうな者では御座いませんか。
私もさう御迷惑に成る事は望みませんです、せめて満足致されるほどのお辞《ことば》を、唯|一言《ひとこと》で宜いのですから、今までのお馴染効《なじみがひ》にどうぞ間さん、それだけお聞せ下さいまし」
終に近く益す顫《ふる》へる声は、竟《つひ》に平生《へいぜい》の調《ちよう》をさへ失ひて聞えぬ。彼は正《まさし》くその一言《いちごん》の為には幾千円の公正証書を挙げて反古《ほぐ》に為んも、なかなか吝《をし》からぬ気色を帯びて逼《せま》れり。息は凝《こ》り、面《おもて》は打蒼《うちあを》みて、その袖《そで》よりは劒《つるぎ》を出《いだ》さんか、その心よりは笑《ゑみ》を出《いだ》さんか、と胸跳《むねをど》らせて片時《へんじ》も苦く待つなりき。
切なりと謂はば実《げ》に極《きは》めて切なる、可憐《しをら》しと謂はば又極めて可憐き彼の心の程は、貫一もいと善く知れれど、他《た》の己《おのれ》を愛するの故《ゆゑ》を以《も》て直《ただ》ちに蛇蝎《だかつ》に親まんや、と却《かへ》りてその執念をば難堪《たへがた》く浅ましと思へるなり。
されど又情として※[#「※」は「がんだれ+萬」、382−9]《はげし》く言ふを得ざるこの場の仕儀なり。貫一は打悩《うちなや》める眉《まゆ》を強《しひ》て披《ひら》かせつつ、
「さうして貴方が満足するやうな一言《いちごん》?……どう云ふ事を言つたら可いのですか」
「貴方もまあ何を有仰《おつしや》つてゐらつしやるのでせう。御自分の有仰る事を他《ひと》にお聞き遊ばしたつて、誰が存じてをりますものですか」
「それはさうですけれど、私にも解らんから」
「解るも解らんも無いでは御座いませんか。それが貴方は何か巧い遁口上《にげこうじよう》を有仰《おつしや》らうとなさるから、急に御考も無いので、貴方に対する私、その私が満足致すやうな一言と申したら、間さん、外には有りは致しませんわ」
「いや、それなら解つてゐます……」
「解つてゐらつしやるなら些《ちよつ》と有仰《おつしや》つて下さいましな」
「それは解つてゐますけれど、貴方の言れるのはかうでせう。段々お話の有つたやうな訳であるから、とにかくその心情は察しても可からう、それを察してゐるのが善く解るやうな挨拶《あいさつ》を為てくれと云ふのぢやありませんか。実際それは余程|難《むづかし》い、別にどうも外に言ひ様も無いですわ」
「まあ何でも宜《よろし》う御座いますから、私の満足致しますやうな御挨拶をなすつて下さいまし」
「だから、何と言つたら貴方が満足なさるのですか」
「私のこの心を汲んでさへ下されば、それで満足致すので御座います」
「貴方の思召《おぼしめし》は実に難有《ありがた》いと思つてゐます。私は永く記憶してこれは忘れません」
「間さん、きつとで御座いますか、貴方」
「勿論です」
「きつとで御座いますね」
「相違ありません!」
「きつと?」
「ええ!」
「その証拠をお見せ下さいまし」
「証拠を?」
「はあ。口頭《くちさき》ばかりでは私|可厭《いや》で御座います。貴方もあれ程|確《たしか》に有仰《おつしや》つたのですから、万更心に無い事をお言ひ遊ばしたのでは御座いますまい。さやうならそれだけの証拠が有る訳です。その証拠を見せて下さいますか」
「みせられる者なら見せますけれど」
「見せて下さいますか」
「見せられる者なら。然し……」
「いいえ、貴方が見せて下さる思召ならば……」
驚破《すはや》、障子を推開《おしひら》きて、貫一は露けき庭に躍《をど》り下りぬ。つとその迹《あと》に顕《あらは》れたる満枝の面《おもて》は、斜《ななめ》に葉越《はごし》の月の冷《つめた》き影を帯びながらなほ火の如く燃えに燃えたり。
第 八 章
家の内には己《おのれ》と老婢《ろうひ》との外《ほか》に、今客も在らざるに、女の泣く声、詬《ののし》る声の聞ゆるは甚《はなは》だ謂無《いはれな》し、我《われ》或《あるひ》は夢むるにあらずやと疑ひつつ、貫一は枕《まくら》せる頭《かしら》を擡《もた》げて耳を澄せり。
その声は急に噪《さわがし》く、相争《あひあらそ》ふ気勢《けはひ》さへして、はたはたと紙門《ふすま》を犇《ひしめ》かすは、愈《いよい》よ怪《あや》しと夜着《よぎ》排却《はねの》けて起ち行かんとする時、ばつさり紙門の倒るると斉《ひとし》く、二人の女の姿は貫一が目前《めさき》に転《まろ》び出《い》でぬ。
苛《さいな》まれしと見ゆる方《かた》の髪は浮藻《うきも》の如く乱れて、着たるコートは雫《しづく》するばかり雨に濡《ぬ》れ
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