たり。その人は起上り様《さま》に男の顔を見て、嬉《うれ》しや、可懐《なつか》しやと心も空《そら》なる気色《けしき》。
「貫一《かんいつ》さん」と匐《は》ひ寄らんとするを、薄色魚子《うすいろななこ》の羽織着て、夜会結《やかいむすび》に為《し》たる後姿《うしろすがた》の女は躍《をど》り被《かか》つて引据《ひきすう》れば、
「あれ、貫、貫一さん!」
拯《すくひ》を求むるその声に、貫一は身も消入るやうに覚えたり。彼は念頭を去らざりし宮ならずや。七生《しちしよう》までその願は聴かじと郤《しりぞ》けたる満枝の、我の辛《つら》さを彼に移して、先の程より打ちも詬りもしたりけんを、猶慊《なほあきた》らで我が前に責むるかと、貫一は怺《こら》へかねて顫《ふる》ひゐたり。満枝は縦《ほしいま》まに宮を据《とら》へて些《ちと》も動かせず、徐《しづか》に貫一を見返りて、
「間《はざま》さん、貴方《あなた》のお大事の恋人と云ふのはこれで御座いませう」
頸髪取《えりがみと》つて宮が面《おもて》を引立てて、
「この女で御座いませう」
「貫一さん、私《わたし》は悔《くやし》う御座んす。この人は貴方の奥さんですか」
「私《わたくし》奥さんならどうしたのですか」
「貫一さん!」
彼は足擦《あしずり》して叫びぬ。満枝は直《ただ》ちに推伏《おしふ》せて、
「ええ、聒《やかまし》い! 貫一《かんいち》さんは其処《そこ》に一人居たら沢山ではありませんか。貴方より私が間さんには言ふ事が有るのですから、少し静にして聴いてお在《いで》なさい。
間さん、私想ふのですね、究竟《つまり》かう云ふ女が貴方に腐れ付いてゐればこそ、どんなに申しても私の言《こと》は取上げては下さらんので御座いませう。貴方はそんなに未練がお有り遊ばしても、元この女は貴方を棄てて、余所《よそ》へ嫁に入つて了《しま》つたやうな、実に畜生にも劣つた薄情者なのでは御座いませんか。――私善く存じてゐますわ。貴方も余《あんま》り男らしくなくてお在《いで》なさる。それは如何《いか》にお可愛《かはい》いのか存じませんけれど、一旦|愛相《あいそ》を尽《つか》して迯《に》げて行つた女を、いつまでも思込んで遅々《ぐづぐづ》してゐらつしやるとは、まあ何たる不見識な事でせう! 貴方はそれでも男子ですか。私ならこんな女は一息に刺殺《さしころ》して了《しま》ふのです」
宮は跂返《はねかへ》さんと為《せ》しが、又|抑《おさ》へられて声も立てず。
「間さん、貴方、私の申上げた事をば、やあ道ならぬの、不義のと、実に立派な口上を有仰《おつしや》いましたでは御座いませんか、それ程義のお堅い貴方なら、何為《なぜ》こんな淫乱《いんらん》の人非人《にんぴにん》を阿容《おめおめ》活《い》けてお置き遊ばすのですか。それでは私への口上に対しても、貴方男子の一分《いちぶん》が立たんで御座いませう。何為《なぜ》成敗は遊ばしません。さあ、私|決《け》してもう二度と貴方には何も申しませんから、貴方もこの女を見事に成敗遊ばしまし。さもなければ、私も立ちませんです。
間さん、どう遊ばしたので御座いますね、早く何とか遊ばして、貴方も男子の一分をお立てなさらんければ済まんところでは御座いませんか。私ここで拝見致してをりますから、立派に遣つて御覧あそばせ。卒《いざ》と云ふ場で貴方の腕が鈍つても、決して為損《しそん》じの無いやうに、私|好《よ》い刃物《きれもの》をお貸し申しませう。さあ、間さん、これをお持ち遊ばせ」
彼の懐《ふところ》を出でたるは蝋塗《ろぬり》の晃《きらめ》く一口《いつこう》の短刀なり。貫一はその殺気に撲《うた》れて一指をも得動かさず、空《むなし》く眼《まなこ》を輝《かがやか》して満枝の面《おもて》を睨《にら》みたり。宮ははや気死せるか、推伏《おしふ》せられたるままに声も無し。
「さあ、私かうして抑へてをりますから、吭《のど》なり胸なり、ぐつと一突《ひとつき》に遣《や》つてお了《しま》ひ遊ばせ。ええ、もう貴方は何を遅々《ぐづぐづ》してゐらつしやるのです。刀の持様《もちやう》さへ御存じ無いのですか、かうして抜いて!」
と片手ながらに一揮《ひとふり》揮《ふ》れば、鞘《さや》は発矢《はつし》と飛散つて、電光|袂《たもと》を廻《めぐ》る白刃《しらは》の影は、忽《たちま》ち飜《ひるがへ》つて貫一が面上三寸の処に落来《おちきた》れり。
「これで突けば可《よ》いのです」
「…………」
「さては貴方はこんな女に未《ま》だ未練が有つて、息の根を止めるのが惜くてゐらつしやるので御座いますね。殺して了はうと思ひながら、手を下す事が出来んのですね。私代つて殺して上げませう。何の雑作も無い事。些《ちよつ》と御覧あそばせな」
言下《ごんか》に勿焉《こつえん》と消えし刃《やいば》
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