》に忍ばずやと、風の音にも幾度《いくたび》か頭《かしら》を挙げし貫一は、婆娑《ばさ》として障子に揺《ゆ》るる竹の影を疑へり。
宮は何時《いつ》までここに在らん、我は例の孤《ひとり》なり。思ふに、彼の悔いたるとは誠ならん、我の死を以《も》て容《ゆる》さざるも誠なり。彼は悔いたり、我より容さば容さるべきを、さは容さずして堅く隔つる思も、又|怪《あやし》きまでに貫一は佗《わびし》くて、その釈《と》き難き怨《うらみ》に加ふるに、或種の哀《あはれ》に似たる者有るを感ずるなりき。いと淡き今宵の月の色こそ、その哀にも似たるやうに打眺《うちなが》めて、他《ひと》の憎しとよりは転《うた》た自《みづから》を悲しと思続けぬ。彼は竟《つひ》に堪へかねたる気色《けしき》にて障子を推啓《おしあく》れば、涼《すずし》き空に懸れる片割月《かたわれづき》は真向《まむき》に彼の面《おもて》に照りて、彼の愁ふる眼《まなこ》は又|痛《したた》かにその光を望めり。
「間さん」
居たるを忘れし人の可疎《うとまし》き声に見返れば、はや背後《うしろ》に坐れる満枝の、常は人を見るに必ず笑《ゑみ》を帯びざる無き目の秋波《しほ》も乾《かわ》き、顔色などは殊《こと》に槁《か》れて、などかくは浅ましきと、心陰《こころひそか》に怪む貫一。
「ああ、未だ御在《おいで》でしたか」
「はい、居りました。お午前《ひるまへ》から私《わたくし》お待ち申してをりました」
「ああ、さうでしたか、それは大きに失礼しました。さうして何ぞ急な用でも」
「急な用が無ければ、お待ち申してをつては悪いので御座いますか」
語気の卒《にはか》に※[#「※」は「がんだれ(厂)+萬」、368−10]《はげし》きを駭《おどろ》ける貫一は、空《むなし》く女の顔を見遣《みや》るのみ。
「お悪いで御座いませう。お悪いのは私能く存じてをります。第一お待ち申してをりましたのよりは、今朝ほど私の参りましたのが、一層お悪いので御座いませう。飛《とん》だ御娯《おたのしみ》のお邪魔を致しまして、間さん、誠に私相済みませんで御座いました」
その眼色《まなざし》は怨《うらみ》の鋩《きつさき》を露《あらは》して、男の面上を貫かんとやうに緊《きびし》く見据ゑたり。
貫一は苦笑して、
「貴方《あなた》は何を※[#「※」は「言+(「荒」の「亡」の代わりに「曷−日−勹」)」、368−16]《ばか》な事を言つてゐるのですか」
「今更お※[#「※」は「まだれ(广)+臾」、368−17]《かく》しなさるには及びませんさ。若い男と女が一間《ひとま》に入つて、取付《とつつ》き引付《ひつつ》きして泣いたり笑つたりしてをれば、訳は大概知れてをるぢや御座いませんか。私あれに控へてをりまして、様子は大方存じてをります。七歳《ななつ》や八歳《やつ》の子供ぢや御座いません、それ位の事は誰にだつて直《ぢき》に解りませうでは御座いませんか。
爾後《それから》貴方がお出掛になりますと私|直《ぢき》にここのお座敷へ推掛《おしか》けて参つて、あの御婦人にお目に掛りましたので御座います」
絮《くど》しと聞流せし貫一も、ここに到りて耳を欹《そばだ》てぬ。
「さうして色々お話を伺ひまして、お二人の中も私能く承知致しました。あの方も又|有仰《おつしや》らなくても可ささうな事までお話を作《なさ》いますので、それは随分|聞難《ききにく》い事まで私伺ひました」
為失《しな》したりと貫一は密《ひそか》に術無《じゆつな》き拳《こぶし》を握れり。満枝は猶《なほ》も言足らで、
「然し、間さん、遉《さすが》に貴方で御座いますのね、私敬服して、了ひました。失礼ながら貴方のお腕前に驚きましたので御座います。ああ云つた美婦人を御娯《おたのしみ》にお持ち遊ばしてゐながら、世間へは偏人だ事の、一国者《いつこくもの》だ事のと、その方へ掛けては実に奇麗なお顔を遊ばして、今日の今朝まで何年が間と云ふもの秘隠《ひしかくし》に隠し通してゐらしつたお手際《てぎは》には私実に驚入つて一言《いちごん》も御座いません。能く凄《すご》いとか何とか申しますが、貴方のやうなお方の事をさう申すので御座いませう」
「もうつまらん事を……、貴方何ですか」
「お口ぢやさう有仰《おつしや》つても、実はお嬉《うれし》いので御座いませう。あれ、ああしちや考へてゐらつしやる! そんなにも恋《こひし》くてゐらつしやるのですかね」
されば我が出行《いでゆ》きし迹《あと》をこそ案ぜしに、果してかかる※[#「※」は「薛/子」、370−1]《わざはひ》は出で来にけり。由無《よしな》き者の目には触れけるよ、と貫一はいと苦く心跼《こころくぐま》りつつ、物言ふも憂き唇を閉ぢて、唯月に打向へるを、女は此方《こなた》より熟々《つくづく》と見透《みすか》して目も
前へ
次へ
全177ページ中134ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
尾崎 紅葉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング